遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『駐在刑事』  笹本稜平  講談社文庫

2021-01-17 22:07:09 | レビュー
 まずタイトルがおもしろい。駐在といえば駐在所、刑事は刑事、なぜその2つが繋がるのか? そこから始まるストーリーである。
 駐在所は東京都の北西端、奥多摩の山里。青梅警察署水根駐在所をさす。刑事とは、警視庁捜査一課第四強行犯殺人犯罪捜査第七係に所属していた刑事をさす。桜田門の花形刑事。十数年の刑事人生を過ごしてきた江波敦史である。その江波が水根駐在所の所長に転身する羽目になった。左遷である。バツイチになっていたので、奥多摩への単身赴任だ。
 なぜ、左遷? 警察庁から出向してきたばかりで、野心満々、いち早くマスコミに顔を売りたい思惑を持つ加倉井管理官が、動機だけが決め手の見込み捜査、状況証拠だけの状況で突っ走ろうとした。江波は被疑者の取調べを買って出た。それは、被疑者の女がシロと直感していたので、冤罪に陥れる可能性を排除したいがためだった。だが、取り調べでのちょっとした休憩中にその女が所持していたキャメルのパッケージを口にあて何かを呑み込んだ。青酸カリによる服毒自殺だった。内部調査で江波に過失がないことが立証されたが、江波はトカゲの尻尾に遭う立場だった。江波を譴責処分にした上で所轄の刑事課へ異動の内示が出された。江波は刑事という職に魅力を無くし、他部署への異動を訊いた結果、水根駐在所に異動するという経緯となったのだ。

 本書は短編連作集となっていて、6つの短編が収録されている。駐在所長江波が奥多摩で発生する事件について、駐在所警察官の職務を果たしながら、刑事の視点と感性を活かして事件の解決に取り組むという内容である。一方で、山里での人々とのふれあいのある暮らしに馴染んで行く。刑事ではなく、生身の人間として生きるという意味を見出していく。

 この連作を読み終えて、本書にはいくつかの特徴があると感じた。箇条書きにしてみる。
1. 東京都における奥多摩が対比的に位置づけられ描かれる。都会に欠落した人間関係の側面も含めて、奥多摩の景色・風土がストーリーの背景に色濃く織り込まれていく。
2. 刑事人生から駐在所の警察官に転身した江波の警察官人生での価値観の変容を描き込む。奥多摩の自然、人間関係が江波の癒やしに繋がる局面を含めて、生身の人間としての江波の側面をも描き込む。
3. 奥多摩という土地柄、事件に山岳場面が関わる形になる。事件の捜査プロセスに山岳での行動描写が色濃く反映していく。都会での事件とは一味異なる捜査プロセスの描写となる。山岳小説の局面が加わり、プロセス描写が警察小説と山岳小説の合わせ技となっていき、結構楽しめておもしろい。
4. 江波が、事件に対しては駐在所警察官の立場・役割を果たすという行動に加えて、刑事の目線と感性を働かせていく結果となる。刑事の立場で事件に関われない江波が、事件にどのように対処していくかが描き出されて興味深い。
5. 捜査本部が立つ事件には、当然警視庁の管理官や刑事が関わってくることになる。このとき、因縁のある加倉井管理官や江波のかつての同僚である南村刑事が関与してくるという設定になっていておもしろさを加える。加倉井は常に攪乱要因となる。

 さて、収録された各短編を簡略にご紹介しておこう。

<終わりのない悲鳴>
 駐在所勤務の非番・休日に、江波が石尾根の中央部へ突き上げる水根沢谷の左岸の水根沢林道を登って行く場面描写から始まる。その途中で人の悲鳴に似た鋭く甲高い音が谷のどこかから響く。江波が駐在所に転身した経緯をそれが思い出させることに。これは上記に繋がる背景描写となる。一方、この連作ストーリーを自然な経緯として読ませる導入部となる。
 駐在所の向かいにある池原旅館の主人・池原健市から携帯電話に連絡が入る。竹田千恵子という宿泊客が鷹ノ巣山登山に出たまま戻って来ないのだという。健市は息子の孝夫とともに、後を追い捜索に加わるという。
 江波は休日登山を返上し、遭難の可能性を踏まえた捜索に切り替える。
 江波ら3人は水根沢谷の沢床まで下り、滝の落口の岩棚で竹田千恵子の赤いザックを発見。滝壺に降りて頭にひどい怪我をしている死体を発見する。自殺か他殺かあるいは事故死か? 明朝、行政解剖が行われる予定で捜査活動が始まって行く。
 加倉井管理官の思惑捜査で、殺しの匂いがするからと南村巡査部長が乗り込んでくる。尚、江波は南村と捜査一課時代には同じ班に所属していたので、人間関係は良好であり南村とは連携プレイがうまくいく間柄だった。南村との連係プレイが活きる。
 江波の駐在所長としての環境が良く分かる設定になっているので、導入ストーリーとして巧みな位置づけになっている。

<血痕とタブロー>
 小学校5年生で、水根ストアの一人娘の真紀が江波に相談事を訴えてくる。島本のおじいちゃんが変だという。普段の応対と違い、気になるのだという。島本は有名な画家で集落のはずれの古民家を購入し一人暮らしを始めた人物。頑固で偏屈な性格なのか、地元の大人たちとは付き合いがない。子供たちとは付き合っているという。
 江波は真紀をパトカーに便乗させて島本の屋敷を訪ねた。屋敷内には誰も居ず、奥の間の八畳ほどの和室の畳に直径2mほどの血痕が残されていた。
 真紀は春休みに入った日に島本の家を訪ねたがそのとき初めて見る外人が訪れていた。その日、島本は真紀にすぐ帰れと言い、普段とは違ったという。真紀は江波にその外人の特徴を説明した。
 特異家出人の扱いでまず現地対策本部ができ、捜査が始まる。奥多摩湖畔公園付近で血のついた庖丁が発見される。さらに、その後三頭山近くで道に迷い下山中の登山者が、疲労凍死と思われる遺体を発見したという連絡が入る。その遺体は真紀が語った外人の特徴を備えていた。所持品からバーナード・ナカノと判明。バーナードは島本画伯が彼の父の画風を模倣し有名になったと主張していたのだ。事件の捜査は思わぬ展開を見せていく。 タブローという用語を知らなかった。辞書を引くと「①[板・カンバスにかかれた]絵 ②仕上がった絵画作品」(新明解国語辞典・三省堂)という意味だった。

<風光る>
 7月の最初の日曜日、石尾根縦走路を登山する江波が、登山道に小型の手帳が落ちていることに気づく。見返しに矢島遼子という氏名と連絡先が記されていた。登山道の先で眺望の開けた路肩に立つ女性登山者を江波が見かけた。その女が手帳の落とし主だった。だが、後日その矢島遼子とはある事件で縁ができることに。
 2日後、駐在所の前が騒がしくなる。水根沢谷に山菜採りに行った池原健市が、ワサビ田の近くで内田省吾が倒れているのを見つけたという。パジャマ姿で足は裸足。泥と埃にまみれた素足に擦り傷や切り傷があった。池原が内田を病院に運ぶという。この時、内田の娘が矢島遼子だったことがわかる。
 翌日、再び省吾が行方不明という連絡を江波は遼子から受けた。江波は遼子と一緒に省吾の捜索を始める。林道を登る途中で、江波は向こうから下りてくる男に出会う。地元で悪評のある熊井政男だった。
 ワサビ田の傍の作業小屋で遼子の父・省吾は「知床旅情」を歌っていた。その近くにスコップがあり、それには血糊がついていた。ワサビ田には20歳そこそこの青年が頭蓋骨を割られた状態で死んでいた。
 スコップに残された指紋から省吾が被疑者とみなされる。青梅署に特別捜査本部が立つ。江波は遺体発見時の状況説明に呼び出されることになる。南村が再び加倉井管理官の指示で乗り込んで来ていた。
 老人性鬱病が疑われ、徘徊癖のある内田省吾が被疑者だが、本当に殺人犯なのか?
 江波は南村とともにこの状況打開に挑んでいく。江波は刑事の視点で状況と証拠並びに情報を分析し始める。そして、南村から得た情報を踏まえてある考えがひらめいた。
 事件解決の決め手に一捻りの背景が加えられていておもしろい短編になっている。

<秋のトリコロール>
 この短編もタイトルで私はつまずいた。トリコロールって? 辞書を引くと、「(三色の、の意)三色旗。特にフランスの国旗」(日本語大辞典・講談社)とある。フランス語である。この短編では、「山肌を覆う紅葉の錦、頂稜を飾る新雪の白、その上の空の青の組み合わせ」(p209)の三段染めを象徴した言葉として使われている。
 この短編、大学山岳部のOBである池原孝夫の指導で江波が北鎌尾根を縦走し槍ヶ岳を登攀するという行程を描くプロセスに比重がかかった山岳小説の趣がある。この短編連作集の中で、私が一番感動した短編がこれ!
 この短編が一味違うのは、池原と江波の山行に、途中からもう一人少年が加わる展開になることだ。千丈沢と天上沢の合流する千天出合の近く、右岸への渡渉ポイントの中ほどの岩にずぶ濡れでしゃがんでいる登山者を孝夫が発見した。一人で来た中学生で北鎌尾根にいくつもりだという。その少年の装備を見て、孝夫は下山するように説得する。だが、下山するふりをして、少年は後から孝夫と江波のキャンプする地点まで登ってくる。
 少年に気づいた江波は孝夫の同意を得て自分たちのテントに受け入れることになる。ここから3人の山行が始まる。少年には北鎌尾根に向かう切実な理由があったのだ。それは一種の事件とも言えるものに起因していた。少年は山行のプロセスで、少しずつ心の内を明らかにしていく。また、孝夫は少年の名前を聞き、少年の登山行動を観察していてある事実に気づいていく。一方、江波は警察官魂を発揮していく。
 少年の念願は達成される。江波の推理が成果をあげた。
 勿論、江波の目標である槍ヶ岳登攀も達成された。ぜひ、読んでほしい短編だ。

<茶色い放物線>
 ラプラドールレトリーバーの雑種とみられる若い成犬の雌がいわば主人公になる短編である。真紀たちが小学校に紛れ込んだ犬を発見する。その犬を彼女たちは「プール」と名付けた。そのプールを江波は駐在所で預かる羽目になり、犬と同居する結果に。
 この犬、介助犬としての訓練を受けていた。なぜ奥多摩に紛れ込んだのか・・・・。
 ある日、プールをパトカーの助手席に載せて江波は朝のパトロールに出かけ、青梅街道を西に向かう。室沢トンネル近くで路肩に駐車する黒塗りの古いセドリックと黒ずくめの服装の男に出くわす。江波の問いかけに対し、男は職務質問へと展開するのを嫌う感じだった。江波は胡散臭さを感じるが、車のナンバーを記憶しただけでその場を去る。パトカーに戻ると、プールの様子が変だった。黒づくめの男に怯えているような感じだったのだ。
 そのプールが誘拐されてしまう。江波はセドリックの自動車ナンバーの調査をしてある糸口を得る。一方、図書館司書として勤務する遼子は、図書館で調べた介助犬関係の有力な情報を入手してくる。少しずつ、プールの周辺で起こってきた数々の事件の状況が明らかになっていく。
 真紀が行方不明になるという事態が発生する。勿論江波は真紀の捜索と救助に邁進していく。
 このストーリーのエンディングがおもしろい。プールが名誉巡査部長の徽章を授与され、警視庁公認の駐在所勤務になる。めでたしめでたし・・・・・。

<春風が去って>
 この短編からプールは江波の相棒としてパトカーに乗るようになる。
 パトロール中に、坂本トンネルの近くで事故車両という無線の連絡が入る。江波は指示を受け現場に向かう。事故を発見し通報したのは、池原孝夫だった。その車は青梅市在住の田所の車と判明する。さらに、警察に届け出が出ていて、近隣のホームセンター駐車場で盗まれたようで、7歳の息子も行方不明だという。車に血痕は見つからなかった。
 車の窃盗と子供が誘拐された可能性を踏まえ、青梅署に捜査本部が立つ。南村が青梅警察署刑事課強行犯係長として異動してきていた。警部補に昇進し異動してきたのだ。これが着任早々の事件だという。加倉井管理官の息がかからない所轄に逃れてきたという南村の甲斐無く、この事件にまたもや加倉井管理官が乗り込んでくる。このところは、読者を楽しませる設定になっている。
 目撃証言は得られない。加倉井は大規模な山狩りを発案し、その計画作成を江波に指示する。情報がない状況で捜査活動が不穏な方向に傾き出す。
 一方、鑑識の報告では事故車の中から犯人につながる痕跡は一切得られなかった。
 江波と南村は被害者田所の家族構成についての報告を聞き、すっきりしないものを感じた。山狩りの指示は田所が言い出したことに加倉井が乗った様子である。
 江波が朝のパトロールに出ようとしたとき、遼子から近隣の心配事の連絡が入る。そのことが捜査状況を大きく動かすことになっていく。江波は己の行動を選択する必要性に迫られる。
 意外な事実が明らかになる。一つの家庭内で起こっていることは、外見からは見える部分と見えない部分がある。そんなよくある原因を核に、意外な構想のストーリーとして展開していく。

 文庫本の奥書を読むと、『小説現代』に2004年~2006年にかけて断続的に発表された短編が、2006年7月に単行本として刊行され、2009年9月に文庫本化されている。
 
 「あとがき」にこの小説を書き始めた意図を著者自ら記している。
 「厳しさよりも優しさ、傷みよりも癒やし---。人と自然が対峙するのではなく共生するような、そんな穏やかで小さな世界での人々の心のふれあいを縦糸に、それでもなお人が絡めとられてしまう犯罪という不条理を横糸に、山里の駐在所に赴任した元刑事の魂の再生を描く---。」(p406-407)
 著者の目論見は成功していると思う。

 ご一読ありがとうございます。

この印象記を書き始めた以降に、この作家の作品で読んだものは次の小説です。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『漏洩 素行調査官』  光文社文庫
『山岳捜査』  小学館
『公安狼』   徳間書店
『ビッグブラザーを撃て!』  光文社文庫
『時の渚』  文春文庫
『白日夢 素行調査官』  光文社文庫
『素行調査官』  光文社文庫
『越境捜査』 上・下  双葉文庫
『サンズイ』  光文社
『失踪都市 所轄魂』  徳間文庫
『所轄魂』  徳間文庫
『突破口 組織犯罪対策部マネロン室』  幻冬舎
『遺産 The Legacy 』  小学館


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