ピアニカの音がするのは本当なら三年生になる女の子が悪い魔法使いによって今は虎みたいな猫にされながらもミの音を出そうとして闘っているからだった。音楽に憧れて、一つの曲が認められたら、本当の自分に戻れるかもしれない。微かな道筋を夢の中に描きながらも、まだ駆け出しの音階に触れたばかりだった。もしもミの音一つ、上手く出すことができたなら、そこからきっと恋の季節を歌い切ることもできるかもしれない。あきらめずに、何度も唇に触れる、夏の空気の出発点。どこか遠くで鳴り響く、高い金属音。
セカンドが倒れて、ショートがカバーに入る。ファーストがオニオンを食べて、ショートがカバーに入る。ライトが光のリバースに呑まれて、ショートがカバーに入る。外野が泡と弾けて、ショートがカバーに入る。監督がビッグクラブに引き抜かれて、ショートがカバーに入る。色んなものが、色んな事情でポジションを空ける。その空間をいち早く見つけ出して、カバーに入る。そんな動作を繰り返し守備範囲を広げて行くショートの職人技を、猫はベンチの下に潜みながら見て覚えた。ある激しい交通渋滞の夜、猫はまんまとスタジオに入り込んで席に着いた。
「続いて雨上がりの小皿さんよりのリクエストです」
そつなくDJを勤める猫に緊急事態が発生した。リクエスト曲の音源が見つからないのだ。スタッフの不手際か、あるいは新手の嫌がらせかもしれなかった。
「まだまだ夜は終わらないぜ」
上手く間をつないでいる内に、発見されればよいが。猫は不安を声に出さないように注意した。オリジナル音源の代わりに、やむなくオルゴール・ミュージックが流されることになった。一番が終わったところで、雨の一夜は一層寂しさを増したように思われた。猫はオルゴールを背中につけて、歌い始めた。サビの部分を力強く歌った後で、詞が飛んでしまった。ラララ、ラララ。しばらく、猫はメロディーを追って口ずさんでいた。曲は途中で終わった。
疲れた足を引きずって見知らぬ街を歩いた。体はすっかり冷え切っていて、暖を取らなければならなかった。古風な喫茶店に入ると恐れていたようにテーブルは低かった。少し前屈みになりながら、僕は自分のやるべきことに夜を使い込んだ。集中することで違和感は消えている。不自然な姿勢は必ず後から響いて来ることが、経験上はわかっていた。周りに座っている人は、みんな顔見知りのようだった。誰かが急に、席替えをしようよと言った。「夜も深まったしね」関係ない。夜が深まったから、何だと言うのだ。静かに打ち込む気配を作ることで、拒否の姿勢を示そうとした。けれども、僕はインテリアの一部に最初から取り込まれた存在に過ぎないのだった。多数決の正当性に流されるまま立ち上がらなければならなくなった。不名誉な形で、夜が取り壊されて行く。ファストフードにしておけばよかった。強い後悔。ささやかな冒険の果てに、自分の席も守れないとは……。
「君、そっちを持って」
「二十三時のラジオジャック。まだまだリクエストも愛も足りないぜ」
ゆっくり眠るために僕は熊への転身を選んだ。誰にも咎められることなく、ゆっくり眠るためには他に道はなかった。突然叔父さんが亡くなったとか、高熱が出たなどと言い訳を並べて、罪悪感の毛布に隠れ込むのはごめんだ。あらゆる犠牲もよしとしよう。捨てるのではなく、ただ選んだのだと強く信じたかった。中断されない夢が描かれる時、夢と現実はひっくり返るのかもしれない。いつまでも、いつまでも、眠っていたいのだ。
「くまちゃんハウスだよ」
大御所の声が響く。あとから黄色い歓声が広がった。すごいね。眠ってるの。ずっと眠るの。食べないの。起きないの。すごいね。大きいね。まだ眠り続けるの。食べないの。ひとりなの。聞こえないの。思ったより大きくないね。すごいね。眠っているの。
「さあ、みんな。よく見ておくんだよ」
すごいね。初めて見た。寝相がいいね。聞こえないの。食べないの。邪魔じゃないの。どうして眠るの。いつから眠っているの。まだまだ眠るの。ねえねえ聞いてみて。あなたが聞いてみて。気持ちよさそう。お利口さんね。すごいね。眠ってる。食べないの。どこから来たの。ずっと眠っているのね。
「あまり騒いだら駄目だぞ」
だめなの。すごいね。聞こえるの。起きちゃうの。大きいね。食べないの。いつ起きるの。まだまだ眠るの。だめなの。どうしてだめなの。本当に眠っているの。深く眠っているのね。
(眠れないさ)
起きているさ。いいように言うな。眠ってばかりいられないさ。うるさいんだよ。みんな聞いているよ。お節介共が。見せ物じゃないんだよ。
(早く帰れよ)
「二十三時のラジオジャックは魔法に慣れた生活者のためのファンタジーラジオ。いつまでもおると思うなよ、親と俺」
階段を下りると腐敗は始まりかけていた。
「暑いところに置いておいたら駄目じゃないか」
暑くないと即座に母は否定した。
「いつから置いてあるの?」
「いつからってあんた……」
不条理な問いが発せられでもしたように、母は不機嫌そうな顔をしている。
「夏の最中に」
夏じゃないと母は季節をも完全に否定してしまう。そんな力が、どこにあると言うのだ。少なくとも、夏は夏じゃないのか。
食卓前には父も座っていた。
「食べない方がいいぞ」
やはりそうか。鼻を近づけると予想の通り嫌な匂いがする。台所の流しの一角に持って行くと一気に捨てた。
「一気に捨てなくても……」
母が捨て方に文句を言った。一気も何もない。捨てるとなったら、もう容赦などいるものか。捨てるか、捨てないか。そこですべての決断は済んでいるのだ。そして、何も食べるものはなくなった。
空腹な足は再び台所へと歩き、上半身はラーメンを作り出した。
丼に移した時には、もう秋だ。突然、吸収が始まった。スープが恐ろしい勢いで、すべてを吸い込んで行く。箸をつけても、つけなくても、お構いなく、吸収はどうにも止められない。ラジオがどんどん大きくなって行くが、吸収に呑まれてスイッチは見つけ出せない。レット・イット・ビー。
「うまそうだな」
下りて来た父が言った。
テーブルの上にはカルボナーラ。
「二十三時のラジオジャック。まだまだまだまだ夜は続くぜ。
誰に求められたわけじゃない。だけど誰にも止められないのさ」
一皮めくると玉葱が現れる。一ページ開くと日常が語られる。まだ、主人公は現れない。一行も飛ばすことは許されない。何一つ現れず過ぎ去ってしまう恐れがあるから。一皮めくると少し軽くなる。まだそれは現れない。曲がり角の向こう、また曲がり角が待っていて、すぐにどちらか一方を選択しなければならない。不確かな道が続き、いつまでも先を見通すことができない。一皮めくると変わらない一面が現れる。一粒含むと苦いだけ。まだ甘い側面にたどり着くことができない。一皮めくる仕草の中に呑み込まれて、目的さえも見失っていく。一皮めくると玉葱が現れる。核心を求めていたのはいつだったか。一つの道に足を踏み入れる。どこにもたどり着くことを許さない道は、ただ注意ばかりを呼びかける。
不審者に注意。そう言われて見る者は、すれ違う者すれ違う者、みんな怪しい側面を持っているようにも見える。どこにでもいるような顔を装いながら、バッグの中には危険な凶器を隠し持っているのかもしれない。
風に注意。飛び出しに注意。ひったくりに注意。落とし穴に注意。待ち伏せに注意。株価に注意。お歳暮に注意。策略に注意。考えすぎに注意。うぬぼれに注意。夜更かしに注意。早起きに注意。ぬかるみに注意。足下に注意。寝癖に注意。悪夢に注意。
突然、鱗雲は頭上に集まって巨大な一つのお化け雲になった。ふぐのお腹に入った空気が出たり入ったりするように、膨らんだり縮んだりする内に濃く染まって真っ黒になった。恐怖の中で身動き一つできずにずっと首を傾けて見上げていた。ついに強大な雲は鯨が最後の節を歌い上げる時のように一気に弾けて、空の中に溶けてしまった。けれども、どこから集められたのか、すぐにそれにそっくりな巨大な雲が、頭上に再び出現して空を黒く覆ったのだった。
「雲が弾けて消えた後だけど……、星が一つ、空に見えた。という方がよくなかった?」
「そういう形もあるかもね」
母は曖昧な共感を示した。
そう言っている間に、強大な雲は再び弾けて空に溶けた。
普通の雲。青い雲が夜に浮かんでいた。切れ目から、薄い月が姿を現した。
「ああ、月か」
月は雲に呑まれて闇が濃くなった。
「ああ、向こうに、星よ」
妄想に注意。独り相撲に注意。深追いに注意。人見知りに注意。紫外線に注意。食べ過ぎに注意。凸凹道に注意。急な上り坂に注意。まやかしに注意。幻想に注意。うまい話に注意。デタラメに注意。若者に注意。親父に注意。悪人に注意。いい人に注意。名言に注意。真実に注意。熊に注意。
点呼の森ではみんなで友達の数を数え合う声が響いていた。よし。友達よし。お前も友達と認めてよし。昨日会ったし、目と目が合ったし、興味は多少ずれていたが、何より気が合った。さあ、出発だ。空がまだ明るい内に、次の町へ飛び立とう。友達よし。抜かりなし。友達を確かめ合って、鳥たちはそれぞれの止まり木を離れ、西の空へと向かって翼を広げた。また別のサークルでは、友達を数える声が響いている。
「まだ機が熟していないようです」
「そうですか。では引き続き、機を見て森を見ておいてください」
「わかりました。そのようにします」
引き受けたものの、拭いきれない不確かさが残っていた。自分でよいのか。自分の機を見る能力に問題はないのか。森を見つめ続けていれば、自然と力は身につくものだろうか。先人たちも、自分と同じような不安を抱いて、森にいたのだろうか。
「木の葉は羽に似ているね」
「君は友達と行かなかったの?」
「でも、飛ぶことはできない」
「そうだろうけど」
「落ちたり散ったりするだけさ」
足下の警備が疎かになっているために、心ない落書きは後を絶たない。全部私が悪いんだ。ごめんねと語りかけながら、私はまな板に布巾をかける。ごめんね。怖かったね、汚かったね、でも、よく頑張ったね。もうあいつらの好きにはさせないから。友達を汚す奴は、誰であっても私が許さないんだ。私の手には奴らを成敗できるだけの武器がある。研ぐほどに光り輝くそれを、きみはいつも穏やかに受け止めてくれるから。