淡い期待を持って近づいた。ATMは、民家の敷地の中にあり、小さな明かりがついている。もしやと希望が涌いて来た。軽い罪悪感はあったが、正当な理由が僕の身体を強く前進させていた。一段高いところに設けられた他人様の敷地内を通って入り口の前に立つ。
自動ドアはすんなりと開いた。円盤型清掃ロボットが、深夜だというのに店内を熱心に動き回って自分の仕事に没頭していた。もうすっかりやり尽くした感が見えるが、そんなことを少しも気にする様子はなかった。
財布からカードを取り出してお金を引き出そうとしたが、既にすべての取引が停止中だった。ロボットがこちらに向かって急接近して、停止した。小さな機械の中心から旗のようなものが伸びて来る。
(特別警戒中)の文字が見えた。
「侵入者を追尾します!」
「僕は正当な利用者だ!」
「侵入者を追尾します!」
応用力のないロボットとはお話にならない。僕はドアを抜けながら、飛行体勢に入った。ロボットも変形して、浮遊し始めた。ネオンも乏しい田舎の夜を飛びながら、逃げた。星がきれい。明日は晴れになりそうだ。ロボットはしつこく後を追って来た。飛行能力について言えば、申し分なかった。いつまでも忠実に、逃亡者の後を追って。もう、僕も彼も知らない街にやって来た。飛びながら、ブティックの中に入った。店員は眠っているのか、出迎えの言葉も特になかった。一番高い棚にあるシャツに手をかけ試しに広げてみた。値札はない。特に尖ったところのない、シャツだった。ロボットは退屈そうに多数の商品を眺めていた。
「追尾中です! 追尾中です!」
ブティックを出ると次の逃亡先である書店に向かった。深夜にも関わらず、行き場を失った大勢の人たちが、それなりの本を手に夢を開いている。あるいは、触れることのできない本の背中を執念深く見つめている。普段は高くてとても手の届かない棚に並ぶ本の一つに手を伸ばした。飛びながら、目を走らせてみる。ロボットは、少しの関心を持って近寄っていた。
「追尾中です! 追尾中です!」
ロボットはもう追っては来なかった。電池が切れたのかもしれない。全身の汗を流したくて、ひと気のない果樹園に降りて水を借りた。ひと捻りで思う以上の勢いで噴射してきた。驚きの余り一瞬身を引いたが、今夜の逃飛行の熱量からすれば、ちょうどよい。随分と逃げたし、機械的な執念にも、負けなかった。降り注ぐ水は、勝利の美酒にも等しいものだった。
「もう終わってるぞ」
木のそばに老人が立っていた。とっくに果樹園は終わったと言った。いつから見られていたのだろう。夜の中で水に酔った顔を見られていたと思うと、急に恥ずかしくなった。少し借りただけ。言い訳のように、僕は言った。
「すぐに警官が来るさ」
老人の目に冗談めいたところは、少しもなかった。早急に立ち去った方が良さそうだ。去り際を汚さぬように、シャワーの位置をちゃんと元通りにしようとして、手間取った。自分が思う以上に、疲弊していたのかもしれない。果樹園の出口に、既に彼らは到着していた。飛行体勢に入ろうとしたが、無理だった。厳しい逃飛行の果てに、浮力は失われていた。
「待て!」
手を広げた警官と警官の間を、猛スピードで突っ切って駆け抜けた。奪った自転車に乗って大通りに出た。道の真ん中を、小さな子供がふらふらと歩いている。どうして、こんな時間に子供だけで……。相反する障壁の間で、僕はブレーキをかけた。もしも捕まってしまったとしても、見知らぬ子供と衝突するよりは遙かにましだ。振り返ることなく、速度を落とすと子供たちの横を通過した。幸いまだ僕の身柄は、自身の制御下にあった。緊急連絡を受けた警官の一人が、早くも行く手に立ちふさがった。再び猛加速して、その横を抜けた。一人かわせば、もう一人。彼らはみんな同じ色の服に身を包み、何かのゲームのキャラクターを連想させた。賑やかな太鼓の音が夜に響く、今日は何かの祭りなのだ。御輿を担ぐ集団とギャラリーの間を縫って、疾走する。
「自転車の若者を二十人ほど確保しました」
誤認逮捕を告げる無線の声。最大の危機は去った。速度を落として細い道に入った。その瞬間、誰かが踏んだブレーキによって、突然自転車は止まった。どこに潜んでいたのか、無数の警官が自転車を取り囲んでいた。濡れ衣の一夜は幕を下ろした。
「追尾します!」
肩の上で、清掃ロボットの声が聞こえたような気がした。
葱の他にも切れるものがあった。例えて言うならそれは玉葱だった。玉葱はいつもあふれんばかりに箱の中に入っていた。時間の許す限り最良の玉葱を探すために、箱の中に無数の手が伸びていた。丸い玉葱、大きい玉葱、尖った玉葱、ひねくれたの、しょぼくれたの、色あせたの、抜きん出た玉葱、ふんわりとした玉葱、膨れた玉葱。一度手に触れてみる、引き取って、持ち上げて、眺めてみる。これかもしれない、でも違うかもしれない。悪くないかもしれない。でも、最良ではないかもしれない。妖しげなの、苦しげなの、尖ったの、しょんぼりとした玉葱、おどろおどろしい玉葱、良さげな玉葱、おどけたの、陽気なの、逞しいの。一つ一つに個性があって、長所もあって、短所もある。ついにこれだという玉葱を見つけて、持ち上げてみる。三秒見つめていると少し確信が揺らいでしまう。大きさ、色彩、性格、それぞれに、それぞれの。みんな同じだったら、どんなに楽かはわからない。一度箱に戻したそれを、すかさず別の者が取っていく。選べなかった者は、その決断に少し嫉妬しながら、再び箱の中に手を伸ばす。もっともっと、他にある、別にある、底の方には、まだ触れていない玉葱があるはずだ。選ばなかった者だけが選ぶ権利を持ち続けることができる。触れて、離れて、また触れて、飽きたらお手玉をして。触れて、離れて、日が暮れて、「ああどうも」、手が触れて、謝って、微笑んで、夜は濃くて、まだ一つも選べない人は、一つも選べなくて。夏が来て、太鼓の音がして、花火が打ち上がって、祭りが終わって、カレンダーが一枚めくれて、雨が降って、秋風が吹いて、一枚着込んで、「早いものですね」「ああ、早いものですね」十二月の足音が、また繰り返されて、だんだん早まって「よい玉葱を!」名残惜しんで、時を数えて。「おめでとう!」。色あせた箱の前で、若者は箱の前で歳を重ねて、少し焦って、少し後悔したりしながら、「雨ばかりですね」。終わりはあるのか、終わりはないのか、一通りの運動の後で、「もういいや」。通り雨のような決断をして。選ばれたものも、選ばれなかったものも、もういいでしょう。
ああ、どうか僕の願いをきいてください。
お星さま。
虫が怖いです。
何を言っても無駄なんです。虫と言ったら、僕の言うことなんてまるで理解しないんだから。言おうと言うまいと何も変わらないんです。だったらいっそ、何も言わない方がいいよね。黙ったままで、自分の胸の中で自分の中の理解者と共に言葉を育んだ方がましだよね。きっとそうでしょう。お星さまだってそう思うでしょう。虫の一つが、本当は怖いんじゃない。ねえ、お星さま。わかるでしょう?
僕は虫がいっぱいいることが怖いんだ。だって、虫はいつもいっぱいいっぱいいるんだから。ちょうどいつかの満天の星みたいにね。いつだってそうなんです。そこにもそこにもそこにも、ああ全くなんて数だい! そいつは僕の知った数じゃない。学んだことのあるような数とは違うんです。その上、奴らは動いているんです! だったら余計に数えようがない。とらえようがないじゃないですか。僕は数え切れないものが、とても恐ろしいんです。お星さま。僕は自分が手にすることのできるものを手にしたいんです。どうか、どうか願いをきいてください。
「ぼく。それはお星さまなんかじゃない。ただのおかきだよ」
「ぼくって言わないで!」
雑音のような落書きを、私はさっと拭き取る。慣れてくれば、そんな仕草も日常の中のささやかな動作の一つとして取り込まれていくのだ。だけど、どうして慣れねばならないのだ。本来、間違えているのは、奴らの方だろう。誤った行動に基づいてできた道筋が日々の暮らしの中に組み込まれて何の疑問もなく正常に機能し始めた時、何かがおかしくなっていく気がする。元が間違っているということを、いつか私自身が忘れてしまうのではないか。考えすぎてしまうのは、いつも少し疲れている時だ。
汚れた言葉で、聖なる(彼らの酷い言葉がそう呼ばせてしまう)まな板を侮辱されるのは、もううんざりだった。