Teddy Bear’s Diary

自作のテディベアの写真で、絵本を読んでいくようなページをつくりたい

8月の広島

2009-08-01 | テディベア

40日ほど前の中国新聞に、横浜市の詩人野木京子さんが「忘れられない書物」として、正田篠枝さんの「耳鳴り」をあげていらっしゃいました。

 

この本には、若い頃の思い出がつまっているのですが、結構ごちゃごちゃに詰め込んである本棚から、47年を経て、すっと出てきました。
探し求めた図書館で出合った野木さんにとっての薄いココア色の表紙は、私にとっては薄緑色の表紙でした。

 

「太き骨は 先生ならむ そのそばに 小さき頭の骨 あつまれり」
ページをくると、正田さんの代表的な短歌の一首がありました。
正田さんは、ご自身の被爆体験を短歌に昇華させた歌集「さんげ」で有名な歌人です。

 

この本が発行された1962年11月30日には、正田さんが経営する平野町の河畔荘に下宿をしていました。
御幸橋のたもとにありましたが、橋の立替の時立ち退きになり、今はありません。
若い人向けの下宿で、入居当初は部屋の空きがなく、ひと月ほどは正田さんが寝起きをされているお部屋の隣の3畳間に特別に置いていただいていました。
下宿探しをしていて、見ず知らずの河畔荘に飛び込んだのですが、原水爆禁止広島母の会の発起人をしてらした正田さんと、一生懸命原水爆禁止の話をしたのを覚えています。
若くて無鉄砲で生意気だった22歳の私ですが、信頼してくださいました。

この本は広島の書店で自分で買いました、正田さんがサイン本をくださって、しばらく2冊が本棚に並んでいましたが、サイン本は何年かして知人にプレゼントしました。
実は、翌1963年の5月、結婚の荷物は、といってもお布団とりんご箱2つくらいですが、この下宿から運びました。
正田さんはこの頃から、書名にも耳鳴りとあるように、体の不調を訴えておられましたが、1965年、55歳で亡くなられました。

 

広島の画家入野忠芳さんを知ったのは、30年くらい前です。
入野さんは広島を代表する画家で、1975年第11回現代日本美術展で大賞を受賞した油彩画「裂罅」は、現在、広島市現代美術館に所蔵されています。
この絵ををはじめて見たとき、心にど~んときた衝撃を忘れることはできません。
今回、ミニ回顧展のご案内(写真は上半分)と、

          

広島の被爆樹木を墨彩で描いた絵はがき10枚セットをいただきました。

 

「過酷な試練に耐えて生き延び、今もなお成長を続けている切なくも逞しい姿は人の心を揺さぶります。広島の同時代を生きている画家として深い共感と同情を覚えながら記録したものです。」…入野さんの言葉です。
10枚セットになっているのは、平和大通のしだれ柳、広島城のマルバヤナギ、鳴渓山善正寺のサルスベリ、観音小学校のクロガネモチ、平和公園のあおぎり、広島城堀端の楠、新庄の宮の夫婦楠、千田小学校の銀杏、鶴見橋東詰のしだれ柳、壽永山安楽寺の銀杏です、ここに名前をとどめておきましょう。

8月の広島は平和への発信を願っています。
広島で平和のために力を尽くしてこられた正田篠枝さん、入野忠芳さん、足元にも及びませんが、せめて、若い頃から続けてきた原水爆禁止運動への応援ができればと思っています。