年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

新春<1>竹駒初詣

2011-01-13 | フォトエッセイ&短歌
 神社仏閣に深い信仰を抱いているわけではないが、初詣の華やぐ雰囲気は悪くはない。ガタの来る身体に夢の持てない社会、出口の見えない閉塞感と元気の出ない暮らし向きなど「御破産に願いまして」と心機一転で進みたいものだ。旧年の悪玉を脱し新年の善玉に託したい、そんなささやかな願いのイベントでもあろうか。
 その点、神仏側もよく心得ていて、無信仰だろうが、一週間前にクリスマスを祝った信者だろうが、伊勢神宮の神職だろうが、東大寺の大仏派だろうが、遍く迎え入れてくれる。宮城県岩沼市稲荷町にある初詣40万人の人出でにぎわう竹駒神社(たけこまじんじゃ)にうかがう。仙台平野を流れる阿武隈川の北岸に位置している。

<竹駒神社の旧参道。仙台駅から東北本線で20分の岩沼駅下車、徒歩10分>

 神仏信仰とは別に神社仏閣は建造物や仏像などの文化財や伝承や故事など古い歴史があってなかなか面白いものだ。特に寺社の言い伝えなどは無形なので歴史事実を反映しているのか、全くの架空の物語なのかは判らない。神々の伝承なら神話の世界で済んでしまうが歴史上の人物が絡んで来るとそうはいかない。
 竹駒神社を創建したのは小野篁(おののたかむら)という平安時代初期の紳士録に記載されて高級官僚である。そんな官僚トップがなぜまた辺境のみちのくの地に足跡を残す言い伝えがあるのか、あるいは本当にこの北の地に来ているのか。
 参道を進んで正月用に「謹賀新年」とドレスアップした指定文化財の随身門(ずいじんもん)をくぐる。
     
<随身門は主神を守る守護神像を左右に安置した神社の門のことである>

 小野篁(おののたかむら)は遣隋使を務めた小野妹子の子孫で、父は小野岑守(みねもり)、孫に三蹟の一人小野道風など王朝貴族のサラブレットである。
 834(承和元)年、遣唐副使に任ぜられるが、正使藤原常嗣(ふじわらつねつぐ)の専断に憤慨し争いを起こした。そして、病気を理由に乗船を拒否したので遣唐使船は小野篁を残して838年6月、大坂の難波(なにわ)を出航した。
 藤原常嗣との激論が何だったのかは解らないが、朝廷の外交方針に対する批判だったかもしれない。というのはこれを最後に、遣唐使が廃止された。加えて、朝廷を批判する詩を作ったため、嵯峨上皇の怒りを買い、官位剥奪の上隠岐への配流という重罪に処された。
 小倉百人一首に出てくる小野篁の『わたの原八十(やそ)島かけて漕(こ)ぎ出でぬと人には告げよあまの釣舟』はこの時に詠まれたものである。その後、許されて隠岐より召し返され官位を上げられ要職を歴任している。842(承和9)年の陸奥守の任命もその一つである。
            

<篁は夜ごと地獄に降り、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたともいう>