年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

台場・幕末の騒

2008-09-18 | フォトエッセイ&短歌
 1792年、江戸時代も終わりに近づいた頃に林子平(はやししへい)という経世家が『海国兵談』という本を出版した。「…長崎の港に石火矢台(いしびやだい=砲台の事)を設けている。…思へば江戸の日本橋より、唐・阿蘭陀まで境なしの水路…」(海に囲まれている日本なのに、長崎だけに砲台を造って、大事な江戸湾に砲台を造らないのはどうしたことか。
 単純明快なこの疑問に、幕府は「お上の御政道に口出しするな」と出版禁止のうえ禁固処分の言論出版弾圧事件。翌年、憤懣やるかたない失意のなかで死去。『親も無し妻無し子無し版木無し、金も無ければ死にたくも無し』子平の人柄が伝わってくる時世の句である。

<江戸から唐・阿蘭陀(中国・オランダ)まで海原は繋がっている。一衣帯水。>

 2隻の黒船の軍事力を背景に、司令長官ペリーが領海を侵犯して江戸湾に入って来たのは林子平処罰後しばらく経ってからである。
 幕府は慌てふためき為す術もなくてんやわんやの大騒動。当時、異国船が来航したら有無を言わずに打ち払え(無二念打払令:むにねんうちはらいれい)であるが、撃退のしようがない。幕府は伊豆代官の江川太郎左衛門に命じて、洋式の海上砲台の建設を急がせた。
 異国船を正面から側面から十字砲火を浴びせられるようにと7基の石火矢台(砲台)の建設となった。何とか、2度目の黒船来航には一部を完成させ、黒船を横浜沖で食い止める事が出来たが、日米和親条約が結ばれ計画は中断された。

<一度も火を噴くことがなかった正方形の第3砲台。石垣は修復されている>

 その後、お台場は撤去されたり、埋め立て地に埋没したり数を減したが、第3・第6台場が国の史跡として保存された。第3お台場が「台場公園」に整備され、「お台場海浜公園」と一体になって開放された。第6お台場は上陸禁止で当時の様子がそのままだと言われている。
 「お台場」のいわれは2説ある。幕府に敬意を払って<台場に御をつけた><御砲台場の砲の字が欠落した>。
 周囲を石垣で囲み、その縁を高い土手にして、鍋底のように中央を低い構造にしている。1辺が160メートルの正方形。北側には石組みの船着場跡があり、火薬庫・玉薬置所などが土手に掘り込まれている。司令官や兵士の駐屯する陣屋なども整い、軍事要塞化されている。

<土手に囲まれた鍋底型台場遺跡の全景。芝生広場の中央に陣屋があった>


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