年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

国境をめぐる

2007-03-08 | フォトエッセイ&短歌
 <代々木練兵場-1> 国木田独歩は代表作『武蔵野』を著述するのに1896(明治29)年、「渋谷村の茅屋に住んでいた」時の日記の紹介から書き起こしている。例えば11月4日「天高く気澄む、夕暮に独り風吹く野に立てば、天外の富士近く、国境をめぐる連山地平線上に黒し。星光一点、暮色ようやく到り、林影ようやく遠し」。あるいは「稲が刈り取らる」「田に水あふれ林が林影倒(さかしま)に映れり」とも記している。
 喧噪シブヤの象徴「センター街」が雑木林と田園の続く狐狸の里村であったとは想像も出来ない。東京府豊多摩郡渋谷町字渋谷と呼んでいた頃の話である。現在でも代々木公園にはこんな雑木林が残っている。


 この里村が一変するのは1910(明治43)年である。青山練兵場が博覧会開催のため閉鎖されその代替として代々木練兵場(代々木陸軍刑務所もこの一遇に設置)が開設されてからである。若者たちの戦闘訓練の場として軍靴に踏み固められ赤土がむき出しの広場に一変したのだ。
 そして兵士達はアジア各地に出撃していった。『きけわだつみのこえ―日本戦没学生の手記遺稿集』をあらためて手に取る。侵略正当化のスローガン「大東亜共栄圏」の野望はポツダム宣言受諾によって根底から崩れた。
 1945年連合軍に占領されると、代々木練兵場は米軍キャンプ地として接収された。ワシントンハイツである。日本に返還されたのは1964年の東京オリンピックの時である。代々木公園として市民に完全に開放されたのが、その3年後である。暖冬の陽が恋人達の背に柔らかく降り注いでいる。

 

代々木の丘で1910年12月。徳川好敏と日野熊蔵が日本で初めて飛行した。ライト兄弟の初飛行の7年後のことだったという。徳川はフランスからアンリ・ファルマン機を日野はドイツからグラーデ機を持帰り、この渋谷の空を飛んだ。そんな記念碑も代々木の一隅にはある。


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