年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

面白い羅漢寺

2008-01-11 | フォトエッセイ&短歌
 羅漢寺は目黒不動に隣接する黄檗宗(おうばくしゅう)の寺院で「天恩山五百羅漢寺」(ごひゃくらかんじ)という。羅漢(らかん)さん、栄枯盛衰の流浪の旅の終着の地とも言える。
 松雲元慶(1700年頃)が独力で536体の羅漢像を彫り上げて祀った。本所五ツ目の羅漢寺である。徳川綱吉や吉宗が支援した事もあって江戸町人の「本所のらかんさんブーム」が生まれ浮世絵にも描かれる観光名所ともなる。しかし、その後、火災・地震などで荒れ寺となるも風雪を経て明治41年に目黒の地に移転されるが、不遇な無住の時代が流れる。
 1938(昭和13)年、安藤妙照尼(総理大臣桂太郎の愛妾)が入寺し寺を維持した。境内が整備され羅漢が落ち着くことが出来たのは1981年になってからである。536体の像は半数が行方不明となり現在287体の羅漢像が安置されている。
 羅漢=(阿羅漢:あらかん)お釈迦様の教えを理解した最高の出家者。仏教の修行の最高段階に達した人。いわゆる仏像ではない。

<風雪を思わせる羅漢の生々しい表情。微笑みの顔・諦観の顔・苦悩の顔相…>

 広島平和公園に「移動演劇さくら隊」の殉難碑があるが、目黒の羅漢寺の狭い境内にも殉難碑が建っている。さくら隊と言えば新藤兼人のドキュメンタリータッチの映画『さくら隊散る』、井上ひさし作「紙屋町さくらホテル」がある。この映画や舞台が重く胸に迫るのは原爆の悲惨、悪魔的な兵器の現実を描いているからだけではない。軍国主義下の演劇人たちの時代の犠牲を象徴しているからである。
 1940年大政翼賛会が発足。全ての物事は戦争遂行のためだけに存在が許される。新劇関係者は平和主義として弾圧を受け、牢獄につながれ生活を奪われ、劇団は解散を命じられていく。戦意を高揚させる目的で内閣情報局は移動演劇連盟を作り、戦争を批判しない芝居を強要し公演させた。
 「桜隊」(苦楽座移動隊)もその一つで東京大空襲の後は疎開先の広島を拠点に活動。8月6日、爆心地から750Mの地で被爆、しばらく生きながらえていた者もあったが9名全員被爆死する。
 「桜隊原爆殉難碑」がなぜ目黒なのか、羅漢様と同じように曲折があるが、徳川夢声氏の呼びかけと多くの人々の協力で目黒の五百羅漢寺に建立され、毎年8月6日に追悼会が催されている。

<羅漢寺の尼僧は碑建立を快諾し寺にあった将軍吉宗の腰掛け石が提供された>

 本堂脇に縁結びの「お鯉観音」があるが、曰く因縁が面白い。新橋の芸者「お鯉」が観音様に進化したのである。本名は「安藤照」、気っぷと美貌で評判を取り絵葉書に描かれた人気芸者。
 桂太郎総理の愛妾となり伊藤博文、小村寿太郎らと交友を持つが、桂太郎没後、尼僧(妙照尼)となって無住で荒れ寺となっていた目黒の羅漢寺の尼住職となる。昭和23年、69才で没。
               
     <芸者お鯉は観音となり、男女の仲を取り持っているという>




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