年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

法度破り

2008-02-28 | フォトエッセイ&短歌
 江戸初期には日本橋一帯は海辺のアシ・ヨシの茂る湿地帯であった。防御と舟運のために掘りをほり神田山の台地を切り崩し埋め立てる造成工事を絶える事なく進めた。それは現在でも継続され江戸湾にはレインボータウンも出現した。
 大手門(城の正面玄関)の正面が日本橋であり、日本橋川を挟んで武家屋敷と町屋の境となる。当時の最大の消費地、江戸城と武士達の衣食住の物資はこの日本橋を拠点とした舟運を使って八方に流通した。両岸には魚市場や諸問屋がならび、荷船、客船の往来はひっきりなし、江戸八百八町随一の賑やかな街となった。
 そこで幕府はこの繁華街に高札場を設置した。「法度(はっと=法律・禁制)」や「掟」などを民衆に徹底させるために木の札に禁止事項を書き記して掲げたのである。御触書(おふれがき)と云われるものである。
 明治7年(1874年)に明治政府による新しい法律がボコボコと出来たので高札では間に合わなくなったので廃止が決定された。

<当時の面影を残す、日本橋の高札場。江戸に高札場は35箇所あったという>

 この高札場の道路を隔てた東側に「晒場(さらしば)」があった。現在の交番の前あたりである。こもぶき小屋(「さらし箱」)に主殺し、女犯僧、心中もののかたわれなどの罪人を入れ、処刑前の三日間、首かせをし、晒したのだそうだ。
「治安を犯せばこうなるぞ!」と江戸市民に見せしめたのだ。恐いもの見たさに結構見物人が集まって中には弁当持参で見に来たりですって…。
 また、関係者には竹のこぎりで身体の一部を切らせたという記録もあるが。
いずれしてもこのような今で云う警察・検察・裁判のシステムが整ったのが、八代吉宗将軍の頃と云われる。『暴れん坊将軍』吉宗の時代どんな社会であったのか。

【のこぎり挽き】<罪人を箱に入れ、首かせをして首だけを箱から出させ、首のそばに竹のこぎりを置いて希望者に首を挽かせて殺す刑。戦国時代は実際に挽き殺したが、江戸期ではさすがに希望者がいなかったとか>


 橋の北東側にある「乙女の広場」が日本橋魚河岸の跡である。今、魚河岸と言えば築地だが、1923(大正12)年の関東大震災までは、ここら一帯の河岸が魚河岸として賑わった。慶長年間に江戸城に納めた魚の残りを城下の人々に売買したのがその起源と伝えられている。


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