年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

風薫る<4>砲台跡

2010-05-16 | フォトエッセイ&短歌

 大河ドラマ「龍馬伝」が好調でる。太平をむさぼる鎖国の日本に蒸気船が来航。方針の定まらぬ幕府の右往左往する様子や攘夷派の対応の様子が面白く描かれている。
 外国船に対する対応は「異国船打払令」が国策だから沿岸各地に大砲を設置しなければならない。特に江戸湾の入口にある安房(千葉)と相模(神奈川)の沿岸防備は緊急を要した。相模国城ケ島の沖あいにアメリカ艦隊が姿を現わしたのは1853(嘉永6)年、小田原藩にも海防の厳命が下った。
 藩財政が赤字の中で「真鶴台場」をかわきりに、「大磯台場」「荒久台場」など五台場を突貫工事で完成させている。

<砲台のある真鶴半島先端から景勝地三ツ石を臨む。前方の島影は伊豆半島>

 小田原藩は幕府の海防掛の支援を受け、伊豆韮山の江川太郎衛門の指導を仰ぎ「真鶴御台場」を築造したが、実際に砲口から弾丸が飛び出した事は無かった。現在、その砲台跡はテンヤワンヤの歴史を語ることもなく静かに下田港に向かって台座跡を残している。
 記録によれば、台場の形は台形で、海岸に面した南面の幅が約25m、長さが約36m、北面の幅が約32mとある。岬先端の広場全体の広さとなる大がかりなものであったようだ。

<コンクリ製の砲台台座の痕跡。黒船で混乱した下田港に標準を合わせる>

 真鶴岬は1672(寛文12)年に15万本の松の苗が植えられ、大正9年には「魚つき保安林」として指定された。木陰をつくり、枯れ葉や虫が海に落ちて、魚のえさを生み魚の集まる森として注目されたのだ。昭和35年、神奈川県立真鶴半島自然公園特別地区に指定された。
 与謝野晶子の「わが立てる 真鶴崎が 二つにす 相模の海と 伊豆の白波」の歌碑がその歴史と自然を見下ろしている。


<鬱蒼と茂る魚つき保安林。松が多いが、若葉・紅葉の落葉樹も多い>