年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

鎌倉Ⅰ<3>北条の最期

2010-01-27 | フォトエッセイ&短歌
 宝戒寺(ほうかいじ)の裏に由比ガ浜に流れ込む、多くの文人墨客が好んだ滑川(なめりかわ)がある。その清冽な流れに架かる宝戒寺橋を渡った所が史跡「紅葉山やぐら」である。「やぐら」は山腹の岩をくりぬいた穴に五輪塔や遺骨を納めた鎌倉時代の墳墓である。鎌倉は都城としては極めて狭い地域なの山腹を利用した墓が発達したのではないかという。「やぐら」が鎌倉独特なものだというから説得性はあるが…。
 昭和10年に発見さた「紅葉山やぐら」は、第二次世界大戦時の防空壕になり放置されていたが、平成11年の大崩落を機に整備された。この辺り一帯が歴史的風土特別保存地区で旧跡「北條執権邸」なので被葬者は執権北条氏の誰かということか。

<何とも無骨!「やぐら」とは似てもに似つかない変な保存をしたものだな~>

 「紅葉山やぐら」の宝戒寺橋の100m下流に東勝寺橋がある。橋を渡り急坂を登ると左側に雑草に覆われた東勝寺跡(とうしょうじ)がある。第3代執権の北条泰時(ほうじょう やすとき)が北条一族の菩提寺として開基(かいき=寺を建立)した寺である。彼は13人の評定衆の会議を幕府の最高機関(評定所)とし、日本における最初の武家法典『御成敗式目』を制定したことで歴史に名を残している。
 それから一世紀、1333年(元弘3年)、後醍醐天皇に呼応して鎌倉に攻め寄せた新田義貞の軍勢に北条軍は敗走。北条高時ら北条氏一門が東勝寺に篭もって戦ったが、勝算なく自ら火を放って自刃した(東勝寺合戦)。再建された東勝寺は関東十刹の上位に位置づけられたが戦国時代には廃寺となっている。

<栄耀栄華を極めた兵たちの夢の宴の跡か。東勝寺跡は冬の雑草にある>

 東勝寺は有事に備えた城塞の役割をもった寺院だったので多少の抵抗はあったかも知れないが一蹴された。『太平記』によれば自害した人々は283人の北条一族と家臣の870人とある。頼朝が鎌倉入りしたのは1180年、それから150年の星霜であった。以降、鎌倉が政治的に注目されることはなかった。
 東勝寺の旧跡の一廓に「腹切りやぐら」と呼ばれるやぐらがあるが、落城時の自害場所と云われている。発掘調査で北条氏の家紋である三つ鱗(みつうろこ)の入った瓦などが見つかったが遺骨はなかった。寺の再建の時にでも別の所に葬られたのであろう。

<「腹切りやぐら」は鎌倉幕府終焉の地である。空洞から鬨の声が立ちのぼる>