このLPは、1973年に購入し結構聴き込んだもの。二枚組のLPで24曲が収められている。レコード番号は「FD-9259~9260」、フォンタナレコードから発売されたもので「Over and Over」を初めて聞いた思い出のLPでもある。今でもキズはほとんどなく、「Deep and Silent Sea」は今でもしびれる音を聞かせてくれる。
ここで、やはり永田文夫さんの解説にバトンタッチしよう。
ギリシヤの生んだ世界的な女性歌・・といえぱ、クラシック音楽ではマリア・カラス、そしてポピュラー界では、さしずめこのナナ・ムスクーリといったところでしょう。彼女は、何ともいえない美しい声と、みごとな表現力の持ち主です.レパートリイも幅広く、ギリシャやフランスの歌はもちろん、インターナショナルなヒット・ソングや映画主題曲など、いろいろなジャンルのものをとりあげて、ギリシャ語、フランス語、英語のほか、数か国語を駆使し、微妙な情きをこめて、巧みにうたいこなします.一度その歌声を聞いたなら、あらゆる人々が、彼女のとりこになってしまうことでしょう。ムスクーリが、ヨーロッパ第一級の名声を確立し、アメリカでも高い人気を持っているのも当然です。
わが国においても、近年ようやく彼女の真価がみとめられ、レコードも次々に発売されて、好評を博しています。いささかおそきにすぎたとはいえ、まことに喜ばしいかぎりですが、それでもまだ充分とは言えません。たとえぱ、彼女の初期の録音「アテネの白いバラ」は、ドイツで驚異的なペスト・セラーとなり、ゴールデン・レコードをかくとくしました。この記録は、ヨーロッパ全体を通じて、いまだに破られていないそうです。1962年には、ルクセンブルグで、放送によるもっともポピュラーな歌手に与えられる「銀のライオン」賞を受賞しました。フランスでは、1967年にACCディスク大賞を授けられ、1971年には、イギリス、オランダ、オーストラリアなどの国々で、5
杖のゴールデン・レコードを贈られました。同年のイギリスにおけるLP盤のセールスを見ても、女性歌手の部では、シャーリー・バッシーやディオンヌ・ワーウィックらをおさえ、断然トップをきっているのです。そういった輝かしい業績を思えば、日本でももっともっと高く評価されてしかるぺきでしょう。そこで、このアルバムでは、彼女の極めつきの名唱をよりすぐって、その魅力をたっぷりと味わい、認識を新たにして頂こうという次第です。
ナナ・ムスクーリは、1936年10月13日、ギリシャの首府アテネの生まれ。幼ないころから、歌が大好きだった彼女は、1951年、アテネ音楽院に入って、ピアノや和声を学び、未来のオペラ歌手を夢みていましたが、あるパーティでジャズを聞き、ご多分に洩れず、その魅力にとりつかれてしまいました。そしてたまたま、友人たちが作っている小さな楽団とともに、放送に出演し、ジャズ・ソングをうたったのが、音楽院の教授にバレて、間近かに迫った卒業試験を受けることを禁ぜられました。こうして、彼女は音楽院を退校し、アテネの「ザキ」という酒場で、ポピュラー歌手としての第一歩をふみ出します。
いち早くムスクーリの才能をみとめ、後援を惜しまなかったのは、のちに「日曜はダメよ」などによって世界に知られたギリシヤの作自家マノス・ハジダキスでした。やがて1960年、彼女はスペインのバルセロナで開かれた地中海音楽祭に、ギリシャ代表として出場して、みごとに優勝の栄冠をかくとくし、ギリシャの歌謡祭でも成功を収めました。同年、アメリカからギリシャを訪れたヘリー・ペラフォンテも、ムスクーリの歌を聞いて感動し、'64年にはアメリカヘ招いて、翌年にかけて各地をうたってまわったり、共演のアルバムを録音したりしました。
ムスクーリがレコードデビューしたのは1959年のことですが、フランスで発売されたのは’60年、そしてこの年kの暮、彼女はパリヘやって来ました。’62年12月には、ジョルジュ・プラッサンスの前座としてオランピア劇場に出場しました。’67年3月にはACCディスク大賞を受賞、10月には大スターとしてオランピアラ劇場のステージレに立ちました。こうして、押しも押されぬトップ・シンガーとなったムスクーリは、その後もロンドンのロイヤル・アルバート・ホールやニューヨークのカーネギー・ホールでリサイタルを開いたり、オランピア射場でロング・ランをおこなったり、世界を股にかけてめざましい活躍をつづけ、今日におよんでいるわけです。
では、ナナ・ムスクーリの魅惑の演唱を、心ゆくまでお楽しみください。(解説・永田文夫)