本格的に城館探訪をはじめて4年、昨年に遠野市内にあるといわれる館跡を示した一覧表の資料を入手したことによって、現在確認される館跡のほとんどを机上では把握しているつもりでもあります。
また、実際に探訪調査した館跡、約60箇所、まだ総数の半数にも満たない現状ですが、この資料によって知り得た知られざる館跡の中には、想像を遙かに超えるすばらしい館の存在も謳われ、実際に探訪してみると、確かにすばらしく鳥肌がでる場面も何度か経験している。
花館(青笹町)を「圧巻」と私は表現しております。
また、石倉館(上宮守)を驚愕と表現いたしました。
いずれも遠野市外では、全くもって無名で、しかも市内でも館周辺の人達でさえ、知らないという館跡でもあります。
しかし、本日探訪調査した館跡、「中沢館」(青笹町)を表現するならば、「戦慄」の一言です・・・・汗・・・・花館をはじめて探訪した時と同じ感動と驚愕、いやいや、戦慄とでも申しましょうか、何故に・・・・なんで・・・・この思いが募るばかりです。
中沢館跡のある山野
満を持して・・・・この表現も多用しておりますが、昨年辺りから早期に探訪しようと思うも、場所の特定ができなかった館跡でもありました。
実際に現地の方からもお聞きして、山野に入ったのですが、どうやら私の勘違いか、道を間違えたのか、辿りつけず・・・でした。
今回、さらに入手した詳細な資料によって、ある程度の場所を絞り込むことができ、後は当って砕けろの思いで、「此処だろう」と思う山野に突入いたしました。
見事、的中、山野に分け入って直ぐに空掘跡に遭遇、まさしくここが中沢館と確信した次第です。
館跡、南側下部付近の空掘
下部付近は空掘2本が横断、土塁も見事で、花館の西側部分を彷彿させる光景がみられる。
土塁と空掘
また、南東側はすり鉢状の形状が広がり、5段の帯郭が配置され、よく切岸され、見応えがあります。
さらに南東側の峰を越えた部分も似た様な地形となっており、こちらにも帯郭が配置されている。
帯郭の一部
比高が93メートルと資料にあるが、結構な高さでもあり、一番最初の画像は下部付近であり、画像には写ってませんが、さらに上方に山頂があります。
下部、中腹部分は花館と石倉館を併せたような印象の館跡と感じましたが、上部に行くに従って、その造りは花館に近い内容と徐々に感じ始めました。
山頂下部の帯郭
山頂下部には大小5段の帯郭が配置されているが、南向きに配置されている。
さらに上の画像部分から南東側に帯郭が延び、南東側の峰にも張り巡らせてあり、L字を逆の形にした形状でもある。
ここで詳しくその形状やら造りを記述しても、伝えきれませんので、詳細は本編サイトにて・・・ということで・・・・。
山頂
南北12メートル、東西7メートルと、かなり狭い、主郭は2段ほど下った社がある部分と推測しております。
山頂下の稲荷社
資料の図面をみると、かなり下部に鎮座しているものと思っていたが、山頂近くの平場にあった。
駒形様も祀られているとか?いずれ、この場所に至るには結構きつい斜面を登ってこなければならないが、地元民のみ知る、参道があるかもしれませんね。
今回、小生は、館跡の遺溝をゆっくり見ながら、堀底を歩いたり土塁に上がったりで、比較的楽に山頂に行き着きましたが、上からただ見ていると、かなり険しいです。
背後の堀切
3重堀を確認、深さもかなりあって遠野規格型に相応しい構えでもあります。
館全体では空掘6本と判別しましたが、さらなる調査が必要でもありますし、今回は2時間程度の探訪でしたが、半日居ても全てを回りきることは出来ないものと考えております。
資料を作成されたお二人の郷土史家も、図面では南東側部分が空白で、おそらく回りきれなかったか、見落とした可能性があります。
今回は早歩きにて、一応館跡の全てを見たつもりではありますが、それでも上からのぞいただけとか、省いた部分もありました。
とにかく今年探訪した部分では規模、遺溝の残存度、配置等が良好で、途中から戦慄するような思いがいたしました。
いつ、だれが、なんのために・・・・遠野郷でも大規模な館跡、さらに花館や石倉館、西門館にもどこか似ている造り、事績やら伝承もほとんど伝えられていないという現実、これを考えればなおさらその思いが募るばかりです。
稲荷社
修復等が必要な社ですが、どうやら現役なようです。
ここでも戦慄いたしました・・・・。
権現様と金勢様が祀られております。
また、実際に探訪調査した館跡、約60箇所、まだ総数の半数にも満たない現状ですが、この資料によって知り得た知られざる館跡の中には、想像を遙かに超えるすばらしい館の存在も謳われ、実際に探訪してみると、確かにすばらしく鳥肌がでる場面も何度か経験している。
花館(青笹町)を「圧巻」と私は表現しております。
また、石倉館(上宮守)を驚愕と表現いたしました。
いずれも遠野市外では、全くもって無名で、しかも市内でも館周辺の人達でさえ、知らないという館跡でもあります。
しかし、本日探訪調査した館跡、「中沢館」(青笹町)を表現するならば、「戦慄」の一言です・・・・汗・・・・花館をはじめて探訪した時と同じ感動と驚愕、いやいや、戦慄とでも申しましょうか、何故に・・・・なんで・・・・この思いが募るばかりです。
中沢館跡のある山野
満を持して・・・・この表現も多用しておりますが、昨年辺りから早期に探訪しようと思うも、場所の特定ができなかった館跡でもありました。
実際に現地の方からもお聞きして、山野に入ったのですが、どうやら私の勘違いか、道を間違えたのか、辿りつけず・・・でした。
今回、さらに入手した詳細な資料によって、ある程度の場所を絞り込むことができ、後は当って砕けろの思いで、「此処だろう」と思う山野に突入いたしました。
見事、的中、山野に分け入って直ぐに空掘跡に遭遇、まさしくここが中沢館と確信した次第です。
館跡、南側下部付近の空掘
下部付近は空掘2本が横断、土塁も見事で、花館の西側部分を彷彿させる光景がみられる。
土塁と空掘
また、南東側はすり鉢状の形状が広がり、5段の帯郭が配置され、よく切岸され、見応えがあります。
さらに南東側の峰を越えた部分も似た様な地形となっており、こちらにも帯郭が配置されている。
帯郭の一部
比高が93メートルと資料にあるが、結構な高さでもあり、一番最初の画像は下部付近であり、画像には写ってませんが、さらに上方に山頂があります。
下部、中腹部分は花館と石倉館を併せたような印象の館跡と感じましたが、上部に行くに従って、その造りは花館に近い内容と徐々に感じ始めました。
山頂下部の帯郭
山頂下部には大小5段の帯郭が配置されているが、南向きに配置されている。
さらに上の画像部分から南東側に帯郭が延び、南東側の峰にも張り巡らせてあり、L字を逆の形にした形状でもある。
ここで詳しくその形状やら造りを記述しても、伝えきれませんので、詳細は本編サイトにて・・・ということで・・・・。
山頂
南北12メートル、東西7メートルと、かなり狭い、主郭は2段ほど下った社がある部分と推測しております。
山頂下の稲荷社
資料の図面をみると、かなり下部に鎮座しているものと思っていたが、山頂近くの平場にあった。
駒形様も祀られているとか?いずれ、この場所に至るには結構きつい斜面を登ってこなければならないが、地元民のみ知る、参道があるかもしれませんね。
今回、小生は、館跡の遺溝をゆっくり見ながら、堀底を歩いたり土塁に上がったりで、比較的楽に山頂に行き着きましたが、上からただ見ていると、かなり険しいです。
背後の堀切
3重堀を確認、深さもかなりあって遠野規格型に相応しい構えでもあります。
館全体では空掘6本と判別しましたが、さらなる調査が必要でもありますし、今回は2時間程度の探訪でしたが、半日居ても全てを回りきることは出来ないものと考えております。
資料を作成されたお二人の郷土史家も、図面では南東側部分が空白で、おそらく回りきれなかったか、見落とした可能性があります。
今回は早歩きにて、一応館跡の全てを見たつもりではありますが、それでも上からのぞいただけとか、省いた部分もありました。
とにかく今年探訪した部分では規模、遺溝の残存度、配置等が良好で、途中から戦慄するような思いがいたしました。
いつ、だれが、なんのために・・・・遠野郷でも大規模な館跡、さらに花館や石倉館、西門館にもどこか似ている造り、事績やら伝承もほとんど伝えられていないという現実、これを考えればなおさらその思いが募るばかりです。
稲荷社
修復等が必要な社ですが、どうやら現役なようです。
ここでも戦慄いたしました・・・・。
権現様と金勢様が祀られております。
館の大きさをどうのこうのというわけではありませんが、今の所、遠野においては5指に入る規模かと思っております。
遺構もよく残され、遠野型規格そのままといった感じでもあります。
今回は下方から遺構を見ながら順に登って行きましたから、それほどの厳しい山登りではなかったと思ってます。
次回もこのコースを辿ることにすれば、案外楽に山頂に行き着くことができると思います。
ここを見ずして遠野の館は・・・・・こちらも来遠の際は・・・です。
久しぶりにこてっこての遠野規格らしい館だし、立派な空堀もあるし、これは楽しみです。
その分山登りもつらいんでしょうね・・・。
場所といいますか名称は存じ上げませんが、牛舎の脇を行ったところです。
目印は山羊です・・・・笑
館森、次ぎの主たる館は小友の新谷館を予定しております。天候次第、小友の探訪状況によりますです・・。
中沢、この傾斜の圃場は、上のほうですな
深山八幡宮の手前あたりでしょかね?
ところで、舘森へはいつのご予定ですか?