経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

3つのカン

2014年12月21日 | Weblog
「真の商人のもつ3カン」

「お客第一主義」は自己中心主義の欺瞞、傀儡であり、
こうした言葉を唱えながら自分の事業を伸ばすことだけを、
ひたすらやってきた企業が行き詰まって次々消えている。

彼らに共通しているのは、表向き理念立派で模範生、
その実自己中心、自社中心であることだ。

自分のお店や商品を褒めるのは当たり前としても、
では相手からみてどうなんだろう、といったように
お客様の方から物事を考え、成す、
つまり「客観(客から観る)」が抜けている。

人は自慢話をするのは好きだが、
人の自慢話きくのは嫌いである。
消費者だってそう。
なのに、その好まれないことをお金と手暇をかけやっている。

今、手元にあるAスーパーのチラシに
「真心を込めて」って書いてある。
「真心」という形のないものをどうして込められるのか。
「満足」や「こわりり」、「おもてなし」、みなそう。

実際できっこない抽象語を口先やコピーで
唱えているから欺瞞と思われ、不信感を持たれてしまうのである。

「無農薬の大根1本100円で販売」なら、行動に結びつき、
形として認識されるからわかる。
しかしその認識の結果、たとえば満足するかどうか
といったことは作り手、売り手ではなく、
お客様の判断である。
だからお客様の判断が「イャ、すごいね。大満足だ」
になるように、「客感」、すなわちお客がどう感じるかを
中心に据えて具体的にカタチ化に向けて
行動することが商人の仕事になる。

それを自画自賛、美辞麗句で飾ったチラシや、
強引なセールストークなどで、その判断を作り手や売り手が
奪い取ったり決めつけたりしている。
こうしたことが、さらに不信感をあおっている。

その結果、「今度のチラシはコピーが甘かったのかも」、
「目玉の打ち出し方がおかしかったのかもね」
といった反省会ならまだしも、中には
競合店のせい、天気のせい、道路のせい、景気のせい、
安倍さんのせい、部下のせい、お客のせい、
となんでも自分以外の「せい」にする者もいる。

私のいいわせてもらうと、
こうした彼らは真の商人じゃない。

商人なら、商いを 消費者を中心に据え、
お客様の喜ぶこと、「客歓」を成すために
試行錯誤し、その繰り返しの中に改善、工夫を見つけ、
それを新たなノウハウ、知恵として取り入れ、
進歩発展していく、これを当然の是のはず。

消費者を中心に据え、お客様を喜ばすことで
自分も事業も成長する。

「客観、客感、客歓」
この3「カン」を備えた者、
彼らこそ真の商人である、と考える。



昨日の続き

2014年12月20日 | Weblog

昨日の「昔は良かった」の続き。

たとえば、「大店立地法」の施行
(H12年6月1日)された直後、
多くの識者は、すでにその時点がデフレ下にあり、
大型店やSCに倒産や陰りがみえてきていた。
にもかかわらず「今後毎年100カ所以上の新規SCが
開発され、2010年には最大4000のSCになる。
これは過去30年分のSCがわずか10年でできることになる」
(業界専門誌S H12年7月号、A氏論文)。

といったように、多くのが、「大店立地法」は
SCの開発のピッチを速め、大型化を促進すると予測。
その理由として、市町村が大型店を誘致することでの
「事業税増」、「雇用確保」「地域の利便性向上」
などのメリットを堂々挙げていた。

さてその後、今の現実はどうであろうか。
そのSCの核となるべき、百貨店や大型スーパーが
こぞって不振を窮め、倒産、退店続出で
姦しいここ数年ではなかったか。

誘致側の行政にしても然り。
数年前から、むしろ退店・撤去阻止の方に躍起、
最近ではそれすら断念というのが実態である。

識者・専門家もまた、無競争状態に競争が生まれた場合、
大が強者、小は弱者であり、それを小からみると
大が加害者で小は被害者といった既成概念と
過去の成功体験を右の彼方へ伸ばして将来を診る手法は、
さきに述べた多くの商人たちと同質なのである。

ではこの両者の認識に共通する背景要因は何だろうか。
競争関係は作り手・売り手におけるフィールド内での
問題であり当事者にとっては歓迎したくないことである。

しかしこれを消費者側のフィールドからみたら、
多くの買う場、多くの商品を選択できる
このことはハッピーで、歓迎である。

とすれば、上述した作り手・売り手の論理が嵩じることは、
消費者の喜び・楽しみへの挑戦であり、
消費者を敵に回すことになる。
このことが、実はわかっていないことである。

2点目は消費者の選択眼のことである。
選択肢の拡大こそ、消費者の豊かな生活の背景を
支えてきた最大の貢献者といってよい。

選択肢が拡大すれば、買い手方は数多くの中から、
選び抜くということになる。

これが消費生活の中で当たり前になれば、
その選択眼は鍛えられる。

野球の場合選球眼だが、たくさんの選択肢、
すなわち様々な業種・業態の中から
お店を選ぶことを「選店眼」と名付け、
様々な商品やメニュー、サービスから選択するのを
「選品眼」と呼ぶことにする。

それらが鍛えられ厳しくなればなるほど
選択されるものは限りなく少なくなり
選択されない方が圧倒的に多くなる。
これもまた自明の理である。

この2点が、いまの構造的消費低迷の根底にある。

それを一言でいえば、
「消費者がことを決めている」ということ、
すなわち「消費者中心主義」という
普遍的、根幹的思想が欠如している、ということになる。

「消費者中心主義」への主義の転換、
ここに合わせた、マーケッティングフレーム
の構築こそが、不可欠になる。(了)




あなたとともに

2014年12月18日 | Weblog
もいちど
「先入れ先出し法」を見て見よう。

会計書によると、
これは、先に取得したものから順に払い出されると仮定して、        
棚卸し資産取得原価を払出原価と期末原価に配分する方法。

長所は、次の2点。  
1-原価配分の仮定と物の流れが一致すること。
2-物価変動時(価格変動時)にも、期末棚卸資産が時価に近似すること。       

対して、短所は、次の2点。
1-物価変動時には、期末棚卸資産の名目資本を維持するだけで、
期首棚卸資産の保有損益が損益計算に混入してしまうこと。
2-その結果、同一物価水準による費用収益の対応ができなくなること

上のどこに、消費者、買い手のことが書いてあろう。
まったく消費者に関係のない論理である。
言うなれば、作り手、売り手のまことに都合の良い論理である。

今も多くの企業がそれを消費者に押しつけている。
そして、なんのおかしさも感じず、叫んでいるのだ。
社是として、唱和しているのだ。
名刺に、書き込んでいるのだ。

「顧客第一主義!」と。

自社から見た経営、さらば。
買い手からみた経営。

この両面で、良しの経営を目指そうよ。
そして高らかに歌おう♫、♬
あなたとともにhttps://www.youtube.com/watch?v=JyutrXC-v4Y

販売員もそう。
買おうと思って来店したお客様に、「売り」をやって
「買おうと」という気を喪失させているのだ。

街作りにしても、多大な金をかけて道路を広げ
車が速度を上げて通過しやすくし、人が歩くのを危なくしている。

どこの世界に「車」が買い物をする街があろうか。
車社会と言うが、どこに車が「社会」を作っているのか。

車は、生活のためのツール、道具の1つだ。
道具の為に金を投じ、それを使う主役をないがしろにする。
その典型的な例が、「歩道橋」。
老人が使用できない橋を作って、なんいが「安全」なんだよ。

このように売れない状況は、多くの場合、人の考え、意志により
消費者にとって都合の悪い条件を創っている例はごまんとある。

なぜか、といったことを考える必要も無かろう。

自分が消費者、買い手である場合に、
感じることを大きく2つに分ける。

1に、「気分がいいこと」、2に「不快なこと」。

市長は、自分の年取った母親と一緒に歩道橋を
登山してみることだ。

商店街の役員は、自分の孫を連れて道を歩いてみることだ。


気分が良いかい。歩道橋は?
車とはみ出した看板など気を遣いながらの
ウインドウシッピングは、気分が良かったかい?


こうした快不快を生じさせているのは、自分だ、
売れなくしているのは自分だ、
ということに気が付けば、ことは簡単だ。
対策はこうした作り手・売り手からの「売り」が、
実は消費者の選択権や買い物行動を阻害している。
そうしたことを、やめればいいのである。

販売員や営業マンは、売り手の味方ではなく、
買い手の味方に徹させればいいのである。

「気分がいいこと」を増やせばいいのである。
「不快なこと」を減じればいいのである。

消費者にとっての
「気分がいいこと」を増やし、「不快なこと」を減じること。

これが経営革新である、と言うのが私の確信である。

経営とかマーケッティングの勉強もやめよとは言わないが、
購買は消費者の心理と行動で決まるのだから、
街を一消費者として、そぞろ歩きし、
一消費者としてのぞいてみたい店に立ち寄り
一お客として買いたい物を買ってみる、
といったことに時間を十分割いてみること。

そうしたら以下に手間暇かけて、コストをかけて
人件費を懸けて売れなくしている化がわかるだろう。
わかったら、それをやめること。
それが売れ出すきっかけになることは、当然である。

花も嵐も踏み越えて

2014年12月17日 | Weblog

繰り返す。
なにやかや売り手都合の理屈をつけて、
「古いもの」を前に陳列したのも、売り手の都合。
お客は、お客の都合で、奥の方の新しい方を選択している。

どうしてこうしたことが起きるのか。

「古いもの」を前に陳列したのも、売り手の都合。
お客は、お客の都合で、奥の方の新しい方を選択している。
コンサルタントいわく。社長いわく。
先入れ先出し法、徹底しなけりゃ利益が落ちる。

コンサルタントいわく。社長いわく。
お客さま第一主義。自社のことよりお客さま優先だよ。


繰り返す。
どうしてこうしたことが起きるのか。
こたえは・・・・・

花も嵐も踏み越えて♪♪
♪♪https://www.youtube.com/watch?v=LNyETK_tHJ4

とおもっているかぎり、
花も嵐も踏み越える以外のこと、
やり方を考えることはしないからである。

この花はきれい、と手にしたことは、
他の数多くの花を、手にしていないと言うことだ。

コップに水が入っている限り、お湯は入らない。
お湯が入っているコップにミルクを入れることはできない。


花も嵐も踏み越えて♪♪
やらねば、戦いは勝ち得ない、と
進軍ラッパのもとに戦った。
その結果は、どうか。
花も嵐も踏み越えて♪♪
いけば勝てたか。

私たちは、戦争時の刷り込みを
まだ頭で繰り返し、それを、生き方、経営、営業、
と様々なところで再現しているのではないか

続く



ハエたたき

2014年12月16日 | Weblog
蠅を追い払うには、蠅たたき。
ごまの蠅には、岡っ引きが十手を光らせばいい。

お客を追い払うには、店員が売る気満々で近づけばよい。
ところが、上の2つの場合と違い、
売り手はお客に買って欲しいのである。
そのためには店に入って欲しいのである。
そして商品を見て惜しいはずである。
見ずに、目をつぶって買う人はいないだろうから。


それなのに、なぜ追い立てるようなことをやるのか。

戸別訪問も然りである。
「ウエルカム、ウエルカム」
「良い時にきてくれた。まああがってゆっくりどうぞ」
と歓迎された経験を持つセールスマンは希有であろう。

その証拠がある。
おとなしい子犬であっても「猛犬注意」
犬を飼っていない家でも「猛犬います」

子供が寝ていてもいなくても「子供が寝ています」。

最近は、もう露骨に
「訪問販売お断り」、「セール一切お断り」

この分かっていることを、なぜ繰り返すのか。

戦いには、抵抗は付きもの。そんなの、想定内。
花も嵐も踏み越えて♪♪
https://www.youtube.com/watch?v=LNyETK_tHJ4

といった時代の刷り込みが、この膨大な無駄を生んでいる。

だってそうだろう。
嫌われることにコストとエネルギーを投じているのだから。

1日80件。年に2足は靴をはきつぶさないと一人前にならない。
いまでもこうした精神論が、行動に移され、
自社の将来(さき)を細くしている。
自分の家に、結婚したてのお嫁さんがいる。
そこに花も嵐も乗り越えて、来られたとしたら、
自分のそのお嫁さんは歓迎するのか。
自分の場合は例外、よその嫁さんは歓迎するとでも思っているのか。


「先入れ先出し法」をやっている経営者もその奥さんも
自分が買うときは、古い方を選択していないはず。
なにやかや売り手都合の理屈をつけて、
「古いもの」を前に陳列したのも、売り手の都合。
お客は、お客の都合で、奥の方の新しい方を選択している。

相棒

2014年12月15日 | Weblog
過日のこと。

久々、「相棒」を見終えて、しばし自分の仕事と重ねていた。

私が経営支援でよく使う「定置網方式」とは、
可能性を最大限に広くとり(非効率的)、
その中の大きな定置網を投げ込み(これはポイント)、
次にそれを徐々につづめていく。
この絞る作業を、手暇のかかる消去法を採用している。


この「相棒」は、なんといっても、主人公の右京の"静"の名推理、
それを行動力でフォローする"動"の相棒が、
犯人探しだけではなく、事件の背景理由まで解明する。

その静と動の組み合わせと、謎解きの思考手法に
科学的おもしろさがあり、初回から見ている。

「 相棒」は推理・刑事物であり、
主人公の右京の設定が東大卒の天才という設定だが、
他の刑事ドラマと違い、一種のヒラメキで、問題解決。
シメ、シメ、メデタシとしていない。
私はここにこのシリーズの人気がある、とみている。

右京の手法は、まずはきわめて幅広い知識をもとに
日常の中での通常、平常、常識との、
「違い、不自然さ、違和感」を見逃さず集める。
それを鑑識と相棒を使って消し込んでいく。
エジソン同様、実に手暇のかかる消去法を取っているのである。

ただ右京の天才たるところは、
その作業をTVの時間枠の関係もあろうが、
極めて短時間にやるところにある。

繰り返すが、
彼は、現場でのほんのわずかの違い、不自然さ、違和感、
といったものを見逃さない。

これは日常の中で生活し、
かねがねから通常、平常、常識を
きちんと身につけていることが必要である。

だが、それだけでは転載であるがゆえに、
どうしてもひとりよがりとなる。

天才的とは特殊性に含まれる。
天才であれば、その立場から事物を見てしまいがちである。
彼のすごさは、そのことを知っていて、凡人である相棒、
例えば初代相棒の薫や、薫の彼女、右京自身の元妻、捜査一課の面々・・・
など普通人の常識視点を下敷きに、
「違い、不自然さ、違和感」さを、感じ取る、
常識人に自分を置いているところにある。

彼は、相棒、そして従来手法で動く捜査一課の存在
こうした対比が存在していてこその自分の存在、
ということを、熟知しているのである。

日常性の中で普遍性ではないものを、彼は見逃さない。
これが「おやっ?」、「なんで?」、「えっ?」である


経営支援・指導を生業にしている私からみていえることは、
経営者(に限らないが)の生活が日常性を喪失し、特殊性へ入ったら、
その時点から経営が徐々に狂ってくる、と断定できる。
当然だ。経営の根本は、世の中の生活へ貢献する、
という普遍性ゆえに存在しているからである。
永田町も霞ヶ関もしかるべきなのだが。はて如何?

ともかく経営は、経営という側面からだけではなく、
日常性、庶民の生活という側面からも、
見てみることが不可欠である。
経営者が後者の視点を失うと、
やがて自らの存在意義を失うことになる。

なぜ、この二つを、ここで取り上げているかというと、
私は経営を日常性の中に学び、そして日常生活に活かす、
ということを、人生の1つのテーマにしているからである。

だから映画をよく見る(現在長期中断中)、本をよく読む、
ということではない。映画や読書をするのは、
単に好きでおもしろい趣味の1つだからだ。
ただ、そうした視点に興味を持ってみてしまうのは、
一種の職業病かもしれないが。

経営学、手法の専門書は、ごまんとあるが、
私は小説や映画から学ぶので、もう20数年前から、
これら専門書に関心を失ってしまった。

これまでよかった業績が悪くなったのには理由があるはず。
この理由探しが、まず経営革新に着手するときの第一歩。
犯人さえわかれば事件は、いっきに解決へ向かうのである。

私が、右京さんから学んだことは大きい。


分岐

2014年12月14日 | Weblog

人口減少または過疎化を論じても、
研究し続けても、嘆いても、歓迎しても、
売上は上がらない。

売上は、常にいかなる時でも、次の公式で成り立つ。
 売上=客数×単価

だから、売上を上げるためには、
1に、商圏拡大(吸引力拡充)、2に、単価を上げる、
3に購買点数を増やすか、3に、来店頻度を増やす、

この4つをあれこれ考え、そのためにはどうしたらいいか
戦術、つまりあの手この手の手を打つ以外にない。

繁盛するか衰退するかの分岐は、その違い、と考える。

購買人口減少はマーケット・パイが小さくなることだから、
それを広げようという対策が1である。

これは過疎地で巨大店舗を作れば、
いわゆる隣商圏からも消費者がくる、という考え方である。

当然、大資本、大型店舗が有利の戦略である。
人口の少ないところで、小さな店を創って、
低価格で集客したところでしれている。
そのうち体力を失い消えることになる。

だからこれは中小商店で採ってはならない戦略である。
ただし例外はある。
たとえば、超うま、評判のラーメン屋など。
つまり距離感を超越する商品を作れれば、
この戦略も例外でなくなるが、例外は例外だから、
例外的な対策として後に回す。

食品で言えば、納め先の胃袋が小さくなるのが高齢化。
少なくなることが人口減少である。
人口が減少し高齢人口が増えたから、
胃袋が倍の大きさになる、といったことにはならないから、
肉屋や総菜屋であれば、ジャンボパックを減らしミニパックで、
ということが対策になる。
それでは単価が落ちて売上の減少は避けられないから、
購買点数を増やす工夫をするとか、いい肉を売る、
といったことで販売単価を上げることになる。

つまり、限られた数の、しかも小さくなった胃袋に
168円のインスタントラーメンを納めるか、
1680円のハンバーグ定食を納めるかで10倍も売上が変わる。

このように、では
「住宅ではどうか」。「車ではどうか」。「スーパーではどうか」。
「ベビー用品店ではどうか」。と個別に、高くか数か、
いずれを重点にしたらいいか、あれこれ考えること。

そして実際試み、試行錯誤してみること。
これで売上の変動を見る。

それを、たいてい
「安売りしなくては売れませんわな」
と言うから、

「では、そうなさいな」

と返事すると、
「安売りでは、大手スーパーにかないませんわな」
と、また言う。
こんな、実際行動せずに、言葉だけでも堂々巡りしている間に、
ほんとうにやっていけなくなる。

過去、様々な業界や商品で、高い方が安いものより売れた、
といった事例はごまんとある。

鹿児島には250円のラーメン屋と900円ラーメンがある。
どちらの店に行列が出来るかというと、900円の方である。
では来店頻度、喫食頻度はというとこれも900円の方である。
ではボリームはどちらがあるかというと、これは250円の方。

こうした事例、
つまり、「高く売る戦略での成功事例を探すこと」である。

それでなんでやろ。どうしてだろうと、考え、
仮説なり結論なりを出す。それを自分の企業なり、
商品なりに置き換えられるかどうか、それをとことん考えるのである。

結論は、二つに一つ。
それが置き換えられるか、置き換え出来ないか、だ。
それをはっきりさせる。

置き換えが出来たら、置き換えてやってみる。
置き換えられなかったら、それはやめて、次を探す。
(このことを私は「試行錯誤と呼び大切にしている」)
 その上で、高価格でも売れる、
換言すれば消費者が価格を決め手にしない世界を作ることである。

「そな、難しいことできますかいな」

とよく言われるが、その難しさも実は、
低価格競争の中で生きていくことと比べたら
遙かに容易なこと、倒産するより楽なことである。 


いろいろ工夫、試行錯誤する少数の人が、
お客様から支えられ、良い思いをする。

「あきまへんわ」、といったぐちを連ねる、
お店がえらい思いをし、あきまへん状態になる。

これ自明の理と考える。


足りない私

2014年12月13日 | Weblog
見るって難しい。

目は前に二つだけ。
目は前にしかついていませんから、前しか見えない。

それも180度、これが横の視野の限界。
また視力には限界がありますから、
その限界を超えた先は見えない。
そうなんです。目だけでは限界がある。

だから耳鼻の出番がある。
耳鼻咽喉科が成り立つ。
動くことの意義がある。
他の人が必要になる。
助け合いや社会や組織が必要になる。

目に限ったことではありませんが、
限界がなく、こうしたものの存在を否定したとしたら、
体中に目が必要になる。
ちょっと気持ち悪いことになります。

こう考えれば、足りないことや、限界を嘆くのは、
まったく不合理なこと、
おかしなこと。
こうした世の中を、ありかたそのものを
否定することになります。

限界がある。足りないものがある。
これこそが「是」なのです。

こうした足りないように思えること。
人間としての限界、自分の能力の足りなさが、
飛行機を生んだ、望遠鏡を生んだ、車を生んだ。

このことを逆に言えば、
自分以外の他の人が、足りないとしていること
できないとしていること、欲しいとしていること、

そうしたものの中で、ひとつでもいい。
自分しかやれないこと
自分が役立てること、
自分のいることが、相手にプラスになること。
それらの中の何か1つでいい。
「ある」としたら、他の人から見て
それが自分の存在価値になる。

そして自分からみて、「生きがい」になる。

それを自分が完全人間になることで
一生懸命していたとしたら、
この自分は存在しなかったということになります。

一生台無し。
だから、「足りない私」を大好きなんです。

私の定義

2014年12月12日 | Weblog
それは仕事か

そのことはお客さまからみて、
ほんとうにプラスになることかどうかを考え、
プラスになることを「仕事」と呼びたい
これが私の定義です。

その意味での仕事をしている人は、
我が社には、いったいどれだけいるだろうか、
考えてみてください。その前に経営者自身は道でしょう。
自問自答して欲しい。

なぜこんな定義をしたかといいますと、
そもそも買い手、消費者に得にならないもの、
すなわち作り手、売り手だけがプラスするものでは、
経済行為そのものが成立しないからです。

消費者は、作り手、買い手のために
自ら経済行為をなすことはあり得ないからです。

このことを前提、物差しとして、
自分の企業が為していること。
経営者として為していること。
従業員にやっていただいていること。
経営計画、組織、スローガン、チラシ、POP、電話・・・
すべてを1つ、1つ見なおしてみること。
これが私の定義する「経営革新」です。
ところがおおかたの経営革新は、自社中心。自己の都合。、

お客様にとっては1番忙しい時期、
忙しい時間を抑えているだろうか。
人はとかく、相手様の忙しさを忘れるものです。

私が事務所にいるときは、毎日通っているショッピングセンター。
日祭日は、レジ10台フル稼働。
ところが平日、とりわけ月曜日は午前中は2台きり。

分かりますか。
曜日で稼働を設定している。
私が現役で、店長していた時は、
3人並んだら1台追加、と決めていました

他の要員は、レジ手近の売り場に配置。
レジ手近の売り場の要員には、レジ要員を兼務。

ここの店長は、お客の動きに対応させていない。
だから、平日にレジの行列、
こんなことになるのです。 

自分たちの段取りで仕事を進めて、
それを「効率的」とか「段取りよく」とか言っている。

利用されるお客様から見てそれがどうなのかを
落としている。

それでも経営理念は「顧客第一主義」。

現場を見て、マニュアル見るならともかく、
マニュアルで現場を見てしまったり、
マニユアルの中の言葉を散りばめたセリフで
お客さまと会話しているようでは、
マニュアルに使われている人間失格者。

自分たちの都合を不便してでも、
お客さんの都合を優先することが「サービス」の本質。

あっ、これも私の定義です。