経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

車の起源

2011年03月09日 | Weblog
【1】イメージの概念=心の中に浮かべる像
(1)果てしない広がりであって捉えどころのない空間のひとこま、一部
(2)本来は、形なく色もなくそして価値なく、そしてひとコマである。
(3)コマとして捉えるためには自我(磁石)による枠どり、色づけが不可欠

ここまで、昨日、記した。

(4)そのコマは過去に、自分の五感で体感したものか、
それらの組み合わせたもので具象化される。

想像の限界は具象化の限界である。
想像を絶するとは、人智の限界を超えたことを
いうが、実際限界を超えたものは、認識できないので
表現のアヤといってよい。

認識とは、過去の記憶に照らしてこそのもの。

だから幽霊、宇宙人、遜悟空、お化けなどを、
想像のものと言うが、創造とはすべて、
自分が過去の見知ったもののアレンジか、
組み合わせによるものである。

茶碗は手のひら、柄杓(ひしゃく)は手からイメージされ、
置き換えられた。

文字、象形文字などその典型だ。
たとえば人骨から、「白」という文字が生まれた如く。

商の国で、二輪車が発明された。
これは人の足のアレンジ。
牛馬から、4輪が生まれ、これが牛馬が動かす戦車になり、
今の自動車になった。

(5)浮かんでは消え、浮かんでは消える。
コマ数は無限。また取り出すコマは制約の多寡に左右される。
これら浮かんでは消え、浮かんでは消えるものを
固定するためには、デザイン化が不可欠となる。

デザインの語源は、デザイアー(Desire)
つまり、欲望、願望、望みを欲する、ということ。

ここで「望み」とは、具体的な形化、これを目標という。
その目標を得たいと欲する気持ちがデザイアー。

そのために如何せん、首をひねって構想することを
「戦略」。そしてその戦略を果たすテクニカル的なものが
手段、技術、戦術、ツール、道具、などなど。

燃える思いの理念、欲望があって、その
思いを具現化したもの、大望具現の形が、
目標、すなわち強力な磁石もしくはゴム紐として、固定される。

それに吸い寄せられ、引っ張り込まれる状況を脳に刻み込む。

それが実際に具現されるためのあれこれが、
手段、技術、戦術、ツール、道具、などなど。

寿司職人になりたい人と、絵描きになりたい人の
手にするものは、異なって当然だ、

このことは、後でまた述べたい。


息し続けることの意義

2011年03月07日 | Weblog
長期間、少しずつ考え続けている
「テーマ」がいくつかある。

それを毎日、このブログに書き出しているのだが、
元々は、ちょっとした断片、ゴミみたいなものである。

頭の中で、おびただしいゴミが浮遊している。
その浮遊物は、頭の中で不連続的に無方向性で、
流れ、とどまり、ながれている。


不思議なことだが、その頭の中の浮遊物を、見ているのは
頭の外にある私の2つの目なのだ。


それら浮遊物の中から、目にとまったもの、
それを少しずつ形化することになるのだが、
ここからは、頭と手の共同作業になる。

ちなみに、この形になる前の、浮遊している段階を、
「イメージ」というのではないか、と
なんの根拠もないし、自信もないが
そう思って、この話を続ける。

以下、
「イメージの具体化と創造性」と題して、
自分の頭の中の「イメージに関するイメージ」
を形化する過程について、メモ風に書き、述べてみたい。


ちなみにこうした場合、私の思考の主な道具は、
頭とパソコン、そしてその画面に表示される文字である。


【1】イメージの概念=心の中に浮かべる像
(広辞苑)
(1)果てしない広がりであって、
捉えどころのない空間のひとこま、一部

(2)本来は、形なく色もなくそして価値なく、
そしてひとコマ。

(3)コマとして捉えるためには自我(磁石)に
よる枠どり、色づけが不可欠

たとえば楽しいイメージを描きたければ磁石を
「楽しい」にセットする。
そうすれば、頭の中に過去の楽しい経験が
集まってきてこのドッドによりさまざまな流動的な絵が描かれ、
次第に鮮明化してくるのが見えるであろう。


まだまだ、(4)、(5)と(10)まで続くが、
ゴミの羅列では、おもしろくない。
ここで一休みし、余話を。

私は、ほぼ5年間、
そしてほぼ毎日ではなく、完全に毎日、
このブログを更新している。

そして、他の5つのブログは、
ほぼ隔日ごとに更新し続けている。

他の3つは、殆ど更新していない。

そうしたブログの文章は、
頭の中の浮遊物を捕らえてメモし、
その断片が、上に述べて思考過程で
文章になるのだが、その創成の過程こそ
至福の時間である。

至福だからこそ、毎日続いているのだ。
メルマガも然り。手書き時代を含めると
27年毎月欠かさず続いている。

呼吸、息も生まれてこの方、続いている。

生きるは息続ける。それも生きること。
楽しいから、続いている。

すべからく続くことは楽しいことだ、
と私は思う。


当たると言うこと

2011年03月05日 | Weblog
常に「利用者の身になって考える」
というのが、本来の経営判断である。


それをいつの間にか、も内部の都合を充足するために
内から外を見る習慣で。脳の回線が、
そうなってしまったということだ。

内から外を見る限り、外からの自分、自企業は全く見えない。

繰り返す。
上空か、外からしか自分の全容は見えないのだ。

だから、自分の身を外におく。上空、つまり俯瞰的に見る
この2つが自然に行える脳の回線を再構築することになる。



事業というのはお客様に合わせて、
喜んでいただくことをなし、喜んでいただく、
そのお駄賃として糧を得て、生き続ける。

これが事業の本質だ。
それを円滑に行うために、マネジメント担当として経営者が、
そしてその思いを実践実行するものとして「組織」がある。

これが経営である。

だから売上不振、経営不振といったことがあったとしたら

1-お客様に合わせていないか
2-喜んでいただいていないか

この2点を疑い、内部を糺して見ることだ。
これをなすことで、経営者はお駄賃として糧を得て
生きることができるのである。

上の2つをなすには、経営者が、仕事ではなく、
1に、日常という生活空間で過ごし、体感すること。
2にそこで消費者の時間を増やすこと

で、身をもって身につける以外にない

ただ、生まれたときから経営をやっているわけではないので、
まず内から外に出る。
そして事業を営む以前の日常空間に身をおき、
以前の消費者としての脳力開発の回線に修復する。

それが無意識にできるよう、意識してやる。

それを時間と金かけて、売上がたりない、利益が出ない。高コストだ、
と、内にいて内向きのことを考え、発案し、それらを組織に
いけ、いけどんどん、とやっている。

それは的外れだから、あたることは希有である。

当たったところは、命を落とし今は生きていない。
幸い外れる確率が高いから、多くの企業は救われ、
ここまで死なずにすんでいる。
 

こうした片面思考、片輪の経営でここまでやってこれたのは、
実に幸運に恵まれている証といえる。
だから、本来の正道、すなわち消費者の側面を加え、
両面思考、両輪経営をやったら、どれだけ大きく伸びるか。

と、私は胸をわくわくしているのである。

客体験こそ

2011年03月03日 | Weblog
利用者の選択、判断の問題を、
「利用者の身になって考える」

と、いくらと考えても言っても、なんの解決もしない。


そんなことは言っても言わなくてもいいから
自分が消費者、お客、利用者、クライアントになる。
その経験を踏まえ、それで体感したことを
自分の経営に置き換えて、活かす。

それ以外がない。

お客になってお客の気持ちを体感する。
実は、実際にやられた方ならわかるが、
これがきわめて難しいのである。


そうした話を聞いてその後、このことを実践された方は、
私が知る限り長崎のSさんのグループ、5-6人だけ。

なぜか。なぜ難しいのか。

それは作り手、売り手の経験、経営者、店主の経験、思考、
こうしたものが脳を占めていて、消費者体験や
消費者の思いなどの進入を邪魔するからである。
経営する側が、消費者になりきると言うことはきわめて難しいことである。



顔も頭も知られている県内の同業者ではなく、
知られていない土地の床屋さんで自分の頭を刈ってもらう。

長崎のSさんたちは、それを1年以上続けた。
客体験をご子息、お弟子さんと実践された。

その体験をお手紙でいただいたが、
曰く「床屋ばなれの理由。じっとしているのはしんどい」。


お客様の体感をいっぱい積むと、
自分の企業、お店の問題が見えてくる。

問題、課題と言うが、それらもまた
消費者、お客、利用者、クライアントからみた
それらでなければ、なんの対応、解決、革新にならないのである

消費者、お客、利用者、クライアントからみた問題、課題こそ
なさねばならない対応である。
消費者になりきれて、
真に経営革新を図らねばならないことが見えてくる。

今、経営者に乏しいのは日常生活での消費者感覚だ。

だから、
今、経営者がなさねばならないことは日常での生活だ。
今、経営者が取り戻さねばならないことは消費者感覚だ。

利発な話

2011年03月01日 | Weblog
よく例に出している床屋さん。

お客はおおむね1.5時間で入れ替わるからいろんな情報がはいる、
とされるが、果たしてそうか。

仕事が部屋の中。一日中。それも頭限定の仕事である。
だから、部屋内の情報。それも来店されるお客との耳より情報。
見るのも、関心も頭、それも頭髪が中心。
それにかけっぱなしのTVといったように、
きわめて限定的、部分的なのである。


昔2年ほどある理髪業界の経営指導をしたことがある。
その体験で言えば、この業界は、
外の世界を見る機会が少ない業界の典型である。

それに、お客を物理的に、かつ心理的、両面で
縛る典型的な仕事といってよい。

似た仕事にお医者さんだってそうじゃないか、という声もある。
確かに個人病院の歯科医は、まさに同じである。


いずれにしてもだから問題だ、
といいたいのではない。

こうした一種の仕事の特性を踏まえて対応したら、
すごいことになりますよ、と言いたいのだ。


床屋さんの場合で、今度はお客様の方から見てみよう。

1時間~1時間40分の拘束は、手錠をはめられているのと同じ。
それに剃刀でひげを剃られる時間は、手術台に乗せられた患者の心境。
なにせ刃物を持った人にじっと見下ろされているのだから。

あの1時間~1時間40分の拘束が如何にお客様にとっての緊張か辛いか、
それをしかたがないこととして我慢しているお客さんの立場が理解できていない。

繰り返すが、いわば手錠をはめられて、剃刀などの刃物を持った人に
じっと拘束されているお客の苦痛がイメージできない。


なぜか。答えは簡単である。

床屋さんは床屋に行ったことがない。
客体験がない。

自分の頭は、家族か弟子が刈る。
また地域の他の床屋さんに刈りに行く人はない。

こうした話をしたのは、S62年5月、長崎市の清流荘で
理髪学会の全国大会が行われたときの基調講演。


この頃、1000円床屋が出現、いわゆる「床屋離れ」が、
この業界を襲った頃である。

千人を超す理容師の皆さんに、
床屋離れとは、床屋が離れたのではなく、
お客が床屋から離れたことを言う。

だから、離れた理由を、こちらが考え、議論し
多数決で決めてもしょうがない。

これは、これ以外にないのです。