経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

化石人間とDNA

2010年06月06日 | Weblog
坂には上りと下りがある。
坂には上りだけの坂も下りだけの坂はない。
坂は上りと下りで1セットなのだ。
ということはその分岐がある。頂上である。

上り坂の時は誰でも上に進めた。
早い遅いの違いはあるから早い者は、早く頂上にたどり着く。
当然、先に上り詰めた者が、先に下ることになる。
これまでと同じ調子で前に進んだらどうなるか。
いやどうなったか。
バブルは、こうしたことで生まれたのでは、と私は思う。

上を目指すときと、下るときでは姿勢も意気込みも違う。
違って当然だ。いや違わなければトラブルが生じる。
それがバブルのはじけではないか、と私は思う。

上に上がるときは、力がかかる。目線が上がる
下に下りるときは、どうか。
同じ姿勢で目線を上げて階段を下りて、
危ない思いがした。

そこで目線を下げて、こわごわに変えた。
目線が下がると、先行き不透明の状況になる。
目線の先は存在しても見えないからだ。

上り坂の調子で下り坂を下っては危なっかしいということだ。
本来なら姿勢が変わる。
変えて当然だ。

だが長い坂を上る経験しか持っていない私たちは、
保守性、慣性の法則により、
下りを上りの姿勢と意気込みで下ったのではないか。

あるいは頂上はさらに上にありと、
さらに上を目指そうという幻想に陥ったのではないか。
あるいは上ることこそ男道、下るなぞ女々しいこと、
と下りを敬遠したのではなかろうか。

何かの本で読んだことだが、
「死んだ人間は自分が死んだことに気が付いていない」

事実かどうか、私はまだ体験したことがないので断定できないが、
依然として、多くの経営者が、
下り坂を上るときの意気込みや姿勢のまま、そう。
「上を向いて・・・」
「がんばろう!目標に向かって」、と。
ゲキを飛ばし、人を奮い立たせれば下り坂でも上れる、
と思い込んでいるようである。

そしてその目標は、頂上の先の高い位置、目線の上にある。
「がんばろう。上を向いて歩こう!」
そして、「これ、これ、上を向いて走らんかい!」

だが今や、明らかに頂上に達しいるのだ。
上り詰めた頂上にとどまることはできない。
コンビニもなにもない頂上では生活できないからだ。
下る、そのためにはどうしたらいいか、
こうしたことを考え、豊かな里を見下ろして以下に
楽しみながら快適に下るか、それを考え下り出す時なのだ。

しかし以前、率いるリーダーたちは上り時代のリーダー。
当然、下りの経験皆無。
それどころか下ることを忌み嫌う戦国武将のDNA継承者たちである。

「上を向いて走ろう。たちあがれ日本」、
と下り坂を楽しみたい国民に向かって、喚起している。

携帯電話を知らない古代人、化石人間から、
携帯電話の次の未来を夢見て立ち上がれ、と
尻を叩かれることに、私は時代錯誤の戸惑いと危うさを
今、禁じ得ないのである。

二身頭

2010年06月04日 | Weblog
「制度」といった概念、そのものが保守性を持つ。

しかも官僚制度そのものが保守的である。

そのことを前提に、官僚制度は生成、創られたものといってよい。



ワイングラスはワインをいれたらぴったしだ。

当然だ。そのために創られたグラスなのだから。



官僚制度にはそれにぴったしの人がiいる。

当然だ。そのために創られた制度、採用方式なのだから。

そして類は類を呼び、さらに保守性を保守強化される。





官僚制度は、縛る、治める、指導、教育といった機能性を持つ。

その場合彼らの対象は縛られる人、治められる人、指導される人、教育される人、

といった「される」側は、国民、市民、町民、村民である。



彼らの数より多い。

必然的に小が大を治めねばならない。

そのために、

1に権威を笠に着ること。

2に国家のため、といった大義名分、

3にそれらを円滑に行使するための権限を強化、手練れ、手続きの複雑化



といったことが必要になるし、人を仕切るのに効果的だ。



かくして、かの有名なセリフ、「前例がない」が、

彼らの魔法の言葉としてはびこることになる。

前例がないモノは排除するのだから、

保守性の上に保守性が重ねられ、歴史を経るごとに

この組織は保守性を重ねることで、より巨大化、より硬直化してくる。



それだけではない。

彼らもまた本能的に類は類を呼ぶ過程で、

数こそ力だということを実感し、巨大化、肥満化してくる。



数字は権力を生む。

皇帝の名を借りて、その実官僚が国政を支配した事例は、

中国の宦官の歴史に多数見ることができる。

そうしたことは、今の日本ではいかん。

天下り先の数のおびただしさはいかん。



血税を吸い込む輩の構造の巨大化こそ、この国の最大の危惧ではなかろうか





話を戻す。

保守性は官僚制度だけではない。経営も然り。

先に触れたようにいわば積み重ねで

右肩あがりを形成している構造になっているわけだから、

極端な言い方をすると経営者が何もしなくても、

積み重なることで売上は上積みされた。



要するに経営者は、資産を投じれば、

あとは総務部、官僚的事務屋が、良きに計らい、

それなりの業績を得ることができたのである。



私は、上京するたびに、

巨大企業のいわゆる本社・本部ビルのおびただしさ、

そしてその中で働いている人々のほとんどが、

直接的には、収益を生まず経費消費の間接部門の人々である。

そのことに驚く。

地代・家賃の高いところの非生産者の高給取りたち、

彼らが地方の現場の生産者を仕切る。

今、死語に近くなったが八頭身とは、頭2,身体8のこと。

それが、頭8,身体2が実態。

夥しい数の職員を数少ない農家が養っている、今の日本農業の構図



それはそのまま日本の今の状態を彷彿させるのだ。



「立ち上がれ、日本」と言われて、立ち上がったらたちまち転ぶ。

頭8,身体2、二頭身、それが今の日本ではないか。



脱人の意図

2010年06月01日 | Weblog
の動いた結果が経済である。

人が生きていく過程でモノが不可欠だ。
人が動けばその分腹が減る。コストが必要になる。
その意味で不景気とは人の動きが鈍くなることで、
金と物が流れない状況のことをいう。

なにも金と物に手と足があって動くわけではない。
金と物の動きの停滞は、人が動かないことである。
暗いところでは人の動きは鈍くなる。
だからそこへ明かりをもった人が登場、明かりを持って動き出すと、
人々はその人の後をついていく。
希望とは常に先の存在のこと。明かりがあれば先が見える。
見通しがきけば、人々は先に向かって動き出す。

明るければ、明かりは不要。
明かりを持つ人の存在は明るさで隠されてしまう。
暗いときこそ明かりが不可欠だ。
明かりを指し示す人の存在がもとめられる。

ところが明るいときに自分の存在を際立たせ、
暗くなったら暗さを強調する、といった人が、
肩書き上のリーダーとしてなんと多いことか。

暗いところに暗いリーダーが、
暗さの恐怖をあおるのでは人はますます動けない。

官僚型というのは、良い意味でも悪い意味でも、慎重である。
希望的観測や願望は言わない。

日本の政治家はどうだろう。

「このままでは日本はダメになる」

といった言葉に代表されるように危機感をあおることで、
自分に期待させる手法を採る。一種の恫喝である。

「票を入れないと、えらいことになりまっせ」。
もっと露骨に、
「逆らえば、予算は付きませんぞ」
といったことを、いっている。

そして実務的には官僚の作った感情のない文を読み上げる。

先は明るい、見通しがよい、バラ色だなどといったら
自分たちの存在感、出番と期待度が希薄になるから、
彼らは常に国民を不安に陥れるやりかたを常套手段にしているのである。

それはそれで彼らの一種の販促活動と、心を広くして受け取るにしても
問題は、私たち国民がそうした彼らのやり方に
刷り込みされて、自分の考え、体感、思いを失ってしまうことだ。
一人一人が自分の判断より彼らの意図ある判断を正しい
と受け入れてしまっていることだ。

国民各自、組織の各人、それぞれがそれぞれの判断をする。
このことが奪われて、他者の意図に染まる、
そうした風潮こそが国、組織の崩壊の兆しといってよい。

畢竟、戦争は人それぞれの思いが、
誰かの意図に引っ張られない限り起こりえないのである。
逆に言えば悪のリーダーは、
国民にそれぞれの自分の考え、判断を失わせるやり方を採る。


そうした彼らの意図にはまらないためには、
1に自分の考えを大事にすること。
2に、相手の話の意図を押さえること。
3に、情報は、発せられた情報と発せられなかった情報とで1セット
そういうもの理解しておくこと。
その上で表を見せられたら裏を見る。裏を見せられたら表を見る、


この3点を自分で手と足と口を使って確認することが、
彼らの意図と術中から我が身と我が国を守るための絶対要件になる。