経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

値切らない人

2010年06月24日 | Weblog
私が心服した、
故西端行雄さんのことに触れておきたい。

大学時代、様々なバイトをした影響で、
中小企業に強い関心を持っていた私は、公務員の父の意思に逆らい、
鹿児島市の中小商店に就職した。
大卒只一人。役職者は全員、社長の親族。
自分の生意気さで、浮いたことにも気が付かず、
結構楽しく働いた。

23の時、公開経営指導協会の喜多村先生(理事長)が、来社。
どうしたわけか運転取り立ての私が、車でホテルまでご案内することになった。

その時、車の中で先生を通じ、当時ニチイの社長、
西端行雄氏の経営のあり方を知り、矢も楯もたまらず、
今度は父母にも相談せず、入社後6ヶ月の10月、
大阪のニチイの途中採用の試験を受け、11月30日退社、
12月1日付でニチイに入った。
楽しかった。

お店の二階の在庫置き場に寝泊まりし
1日18時間も、残業代の申請もせず働いた。
月二回の休みが辛いぐらい、仕事はおもしろかった。
私だけではない。みな同僚もそうだった。

それが西端さんが、57年だったか、死去。
氏の徳の考えは払拭され、力の経営に代わった。
変わったのでなく、徳の人から力の人に代わったのである。

西端さんは、秒弱であった。まだ50代半ばというのに、
車いすで、といったこともしばしばであった。

元教師の西端さんは、教え子を戦争に送ったことを悔やみ、
教員を辞め、行商。そして天神に小さな衣料品店を開いた。
[はとや]という。損得を考えない商いは、消費者の支持を生み、
一世を風靡するほどの繁盛店になった。
彼の

徳と力を対比しながら話を進めている。
話の本筋から外れるが、私が心服した、
故西端行雄さんのことに触れておきたい。

大学時代、様々なバイトをした影響で、
中小企業に強い関心を持っていた私は、公務員の父の意思に逆らい、
鹿児島市の中小商店に就職した。
大卒只一人。役職者は全員、社長の親族。
自分の生意気さで、浮いたことにも気が付かず、
結構楽しく働いた。

23の時、公開経営指導協会の喜多村先生(理事長)が、来社。
どうしたわけか運転免許取り立ての私が、車でホテルまでご案内することになった。

その時、車の中で先生を通じ、当時ニチイの社長、
西端行雄氏の経営のあり方を知り、矢も楯もたまらず、
今度は父母にも相談せず、入社後6ヶ月の10月、
大阪のニチイの途中採用の試験を受け、11月30日退社、
12月1日付でニチイに入った。
楽しかった。

お店の二階の在庫置き場に寝泊まりし
1日18時間も、残業代の申請もせず働いた。
月二回の休みが辛いぐらい、仕事はおもしろかった。
私だけではない。みな同僚もそうだった。

それが西端さんが、57年だったか、死去。
氏の徳の考えは払拭され、力の経営に代わった。
変わったのでなく、徳の人から力の人に代わったのである。

西端さんは、秒弱であった。まだ50代半ばというのに、
車いすで、といったこともしばしばであった。

元教師の西端さんは、教え子を戦争に送ったことを悔やみ、
教員を辞め、行商。そして天神に小さな衣料品店を開いた。
[はとや]という。損得を考えない商いは、消費者の支持を生み、
一世を風靡するほどの繁盛店になった。
彼の商いに賛同する3人の経営者と協業、合併。それがニチイである。
個性の強い小さなお店の経営者達は、西端さんを社長、

あとそれぞれ新会社の取締役、本部長等の役職に就いた。
その後もニチイは合併を重ね、業界3位の売上まで達した。
彼の生存中は、派閥などの動きもなかった。
何より社員は、それぞれ力を発揮し、業績は良かった。

西端さんが亡くなり、社長が代わった。
力ずくの後任者で職場は荒さみ、業績も落ちた。

豪腕力の世界には、私は適応できなかった。
その年、私はニチイを退社。
退社10余年後、当社は倒産した。