次の目標は、次の高い山にある。
それ自体は問題はない。
さらにその山を目指す人がいても良い。
いなくても良い。
いずれにしても、この山を下りて、いったん谷底に下り
里で、考えて決めればいい。
そこからさらに次の山の頂上、次の目標へ向かう、
これもいい。里でゆっくりする。これもいい。
だがみんなで次の山を、と強いることはない。
みんなでゆっくりと、と強いることもない。
とまあれ、その目標は、次の山の頂上にあるのに。
この山と次の山の間には谷があるのに。
それを下ることを厭い、上がる姿勢で前に進んだら、
谷底に転げ落ちるのは当然ではないか。
みんなで、歩いて行こう
みんなで、上を向いて、立ち上がれ!
みんなで上を向いて、次の山まで走れ!
ともかく、「みんなで」といった、こうした時代は終わった。
終わった、良き時代のイメージを元に、
終わった人たちが先頭に立ち、この国の百年の大計を担おうと、
「上を向いて走ろう。たちあがれ、日本」、
「俺たちは、これで日本をトップにもって行ったんだ」
下り坂を、下を向いて歩いている国民に向かって
檄を飛ばしているのは、噴飯ものだ。
なにもあの新党云々を言いたいのではない。
政治を例に引いているが、政治のことを言いたいのではない。
「歩みの鈍いおじいさん達が、先を塞ぐから走れないんだよね」
「おじいさんたちが、どいてくれたら私たち、普通に歩いても
おじいさん達より早いのだから」
細い道を、千年も生きてきた大亀たちが先頭を走る。
後ろの若々しいウサギたちは、そのカメが道を
ふさいでいるために、先に歩めない。
これがこの国の、経済の閉塞感の因ではないか。
それを言いたいのである。
誤解して欲しくない。
そこどけ。おっちゃん。コギャルがお通りだ。
年寄り排除、年功序列断固撤廃、といったことを
いいたいのではない。
走ることを当たり前、普遍的姿勢と思いこんで疑いをもたない。
それに疑問を感じないことを、おかしいのではと思っているのである。
どう考えても、生活の根本は、「走る」ではなく、
「歩くこと」が基本、こちらが当たり前ではないか。
それも競歩みたいに歯を食いしばるのでもなく、
歩き方のインストラクターの指導を受けなくても、
普通の生活の中での「歩くこと」。
追われて走ることなく、慌てず急がずで、穏やかな常性を営める、
そうしたものが政治や経済の本来の目指す目標ではないか、
と言いたいのである。