小売の取るべき戦略をよむ。
長い歴史を見てみると商店と消費者の関係を、売り手と買い手の接点という視点から、みると、接点を減らしていることが明らかである。
戦後以降を見てみると、さらに特徴的なことが2点浮き彫りにされてくる。1は、商店数の減少と規模の拡大。2に、商店数の減少と1店舗当たりの売上規模の拡大である。3に、規模の拡大と反比例して、販売員数の減少していることである。当然、販売員一人当たりの売上(人的生産性)は、著しい伸びを示している。
これだけの傾向で断定することはできないが、言えることは、1に、零細・小規模商店が淘汰し、大型店化することで拡大する消費者の消費の受け皿を果たしてきたこと。2に、売り手と買い手の接点に関しては一切データーがないわけだが、従業員数の伸びに対して、規模の拡大の伸びが著しいことから、間違いなく両者の接点は減少してきていると推定し得ること。その論証の一つに、零細・小規模商店の減少と、セルフストアの増大がある。セルフで良し、からセルフの方が良い、といった消費者の選別に耐え切れず淘汰されて来た店がおびただしくある。その一方当然しぶとく生き残った商業者がいる。その彼らとて大型店同様に、規模の拡大に努め、省力化・合理化によって凌いできたのである。当然、その過程で接点を疎にしていることは否定できまい。
問題は、こうした中で、いつの間にか商業者と生活者との間にあらゆる点での相当の乖離(ギャップ)がみられるようになってきたことである。その結果、いわゆる業態的に言えばダイエーを先頭にしたGMSの構造的不振が起きるべきして起きた。
その理由は、様々あろうが、一つにまとめて一言で言えば、消費者との乖離と言えるのではないか。
それは、皮肉なことに、百貨店から始まった。消費者との接点を疎かにしたのはセルフストアより彼らが先であったからだ。以前から、委托販売員、派遣社員に依存していた彼らは、ほとんど消費者との接点を放棄していたのである。
加えて、「私、売って上げる人、あなた買う人」、売り手高位の対峙概念であろう。その発せられる言葉の慇懃さとは裏腹の消費者より高い位置に立った百貨店経営者の不遜な言動(三越の岡田事件。西武の禁の屏風・絵画事件、そごう脱税事件、その他高島屋、松阪屋とさまざまな事件を起こしている)。事件には至らなくても著名百貨店経営者の言動は、どう考えても消費者を知らないか、もしくはこうした消費者を無視したものと受け取らざるを得ないものが多かった。それがダイエー他の経営者や、著名商店街の役員などの発言にも及ぶようになった。
その後の構造的消費不振は、こうしたことに対する消費者の不信感もしくは拒否反応がある、と私は理解している。
経営が見えない。経営者が見えない。大手・大資本だからといって信用できない、といった不信感が、消費不振を招いた、それは、一言で言えば、消費者接点を希薄にしたツケだ、と幾度となくしてきた。余談ながら、商店街の衰退の始まりとその後の趨勢と、商店主の居職分離のそれとは、まさに逆比例している。これも関係していることは間違いがない。
ここへ来て、人手不足。これも10年以前から、新聞のコラムを借りて申し上げきたことだが、当時不況期でリストラしていた時期。これはそのための一過性的人余り。少子化・高齢化、人子減少といった構造的要因があるかぎり、日本は構造的人手不足なのだ。
そうなるとどうなるか。1つはさらに人手を要しない形のストアオペレーション化の方向。2つは、かりに高額の人件費を払ってでも人員を確保する戦略、3,外国人労働者への依存。3は、国策との絡み、業種・業態により条件が異なるので、ここでは省き、1と2,どちらを選択するかで、商業は、その運命が変わる。
以前も書いたが、ユニクロの2の、選択は、商業における人的機能という物の価値を真から分かっている経営者が、できる決断である、と私は高く評価している。
消費接点こそ消費、とりわけ小売業の生命線。その生命線を削ぐ形で企業の存続を図ることは、長期視点から見たら、難しいこと。この点断定しても良い。
長い歴史を見てみると商店と消費者の関係を、売り手と買い手の接点という視点から、みると、接点を減らしていることが明らかである。
戦後以降を見てみると、さらに特徴的なことが2点浮き彫りにされてくる。1は、商店数の減少と規模の拡大。2に、商店数の減少と1店舗当たりの売上規模の拡大である。3に、規模の拡大と反比例して、販売員数の減少していることである。当然、販売員一人当たりの売上(人的生産性)は、著しい伸びを示している。
これだけの傾向で断定することはできないが、言えることは、1に、零細・小規模商店が淘汰し、大型店化することで拡大する消費者の消費の受け皿を果たしてきたこと。2に、売り手と買い手の接点に関しては一切データーがないわけだが、従業員数の伸びに対して、規模の拡大の伸びが著しいことから、間違いなく両者の接点は減少してきていると推定し得ること。その論証の一つに、零細・小規模商店の減少と、セルフストアの増大がある。セルフで良し、からセルフの方が良い、といった消費者の選別に耐え切れず淘汰されて来た店がおびただしくある。その一方当然しぶとく生き残った商業者がいる。その彼らとて大型店同様に、規模の拡大に努め、省力化・合理化によって凌いできたのである。当然、その過程で接点を疎にしていることは否定できまい。
問題は、こうした中で、いつの間にか商業者と生活者との間にあらゆる点での相当の乖離(ギャップ)がみられるようになってきたことである。その結果、いわゆる業態的に言えばダイエーを先頭にしたGMSの構造的不振が起きるべきして起きた。
その理由は、様々あろうが、一つにまとめて一言で言えば、消費者との乖離と言えるのではないか。
それは、皮肉なことに、百貨店から始まった。消費者との接点を疎かにしたのはセルフストアより彼らが先であったからだ。以前から、委托販売員、派遣社員に依存していた彼らは、ほとんど消費者との接点を放棄していたのである。
加えて、「私、売って上げる人、あなた買う人」、売り手高位の対峙概念であろう。その発せられる言葉の慇懃さとは裏腹の消費者より高い位置に立った百貨店経営者の不遜な言動(三越の岡田事件。西武の禁の屏風・絵画事件、そごう脱税事件、その他高島屋、松阪屋とさまざまな事件を起こしている)。事件には至らなくても著名百貨店経営者の言動は、どう考えても消費者を知らないか、もしくはこうした消費者を無視したものと受け取らざるを得ないものが多かった。それがダイエー他の経営者や、著名商店街の役員などの発言にも及ぶようになった。
その後の構造的消費不振は、こうしたことに対する消費者の不信感もしくは拒否反応がある、と私は理解している。
経営が見えない。経営者が見えない。大手・大資本だからといって信用できない、といった不信感が、消費不振を招いた、それは、一言で言えば、消費者接点を希薄にしたツケだ、と幾度となくしてきた。余談ながら、商店街の衰退の始まりとその後の趨勢と、商店主の居職分離のそれとは、まさに逆比例している。これも関係していることは間違いがない。
ここへ来て、人手不足。これも10年以前から、新聞のコラムを借りて申し上げきたことだが、当時不況期でリストラしていた時期。これはそのための一過性的人余り。少子化・高齢化、人子減少といった構造的要因があるかぎり、日本は構造的人手不足なのだ。
そうなるとどうなるか。1つはさらに人手を要しない形のストアオペレーション化の方向。2つは、かりに高額の人件費を払ってでも人員を確保する戦略、3,外国人労働者への依存。3は、国策との絡み、業種・業態により条件が異なるので、ここでは省き、1と2,どちらを選択するかで、商業は、その運命が変わる。
以前も書いたが、ユニクロの2の、選択は、商業における人的機能という物の価値を真から分かっている経営者が、できる決断である、と私は高く評価している。
消費接点こそ消費、とりわけ小売業の生命線。その生命線を削ぐ形で企業の存続を図ることは、長期視点から見たら、難しいこと。この点断定しても良い。