息を吸うにも、歩くのにも、水を飲むのにも、手を洗うにも、教えを請う人がいて教える人がいる。請う人がいなくても、教えたがる人もいる。
もっともそうした中には、教えることが本当の目的ではなくて、「おい、おい、おれは物知りだぞ」といったことを吹聴するため、といった大人子供も少なくないようが。
もちろんそうした場合、「ああ、教えてもらってありがたいな」と思う人も大勢いるのでしょう。未知のことを学ぶきっかけは、自分の子供の頃を思い出しても、親戚のお節介お兄さんがお陰だ、といったものも少なくないことは事実です。
だからといって、教える人がいなければ学ぼうとしない人たちがふくれあがってくることが、良いことなのかどうか。学ぶという背景には、関心を持つ、好奇心、といったものがあるのでは、と、私はそう思うのです。
いつも事務の人にコピーを頼んでいたM社長が、あるとき自分でコピー機を使おうとしたが、どうしても操作出来なかった、という話を、ご本人から聞きました。
「ボケがでたのかな」といわれていましたが。それは違う。
私もそうです。もはや鉛筆で文章を書くことは至難の業(わざ)化しています。漢字を書けなくなっているのもそうですが、文章が出てこない。頭が働かないのです。バイパスが出来たため、元の国道がぺんぺん草、あれです。
教える、教わるといったことに対する問題は、上に上げてきたこと以外にもあります。教えた人が、「おれは物知りだぞ」といった自己充足感の類(たぐい)から、「おれはこうして成功した。これで億万長者になれ」という類まで含めて、教えた人に得があるように出来ている、ということです。端的に言えば体験が売り物になる。それは商売ということで、目くじらを立てることではありません。
ですが、商売なら謙虚さがなくてはならないのでは、と思うのです。成功することは素晴らしいことで、うらやましいこと。ですがその体験を売り物として扱うとなると、それは商売。ならば商人としての謙虚さがあってしかるべきでは、ということを申し上げたいのです。
でないと。他の多くの商人が迷惑です。「もみ手をして・・・」、と昔から揶揄されているぐらい商人は、謙虚さを飛び越えて卑屈なぐらい低い姿勢をとおして、商いに努めてきているのです。
売る側は卑屈になってはいけません。ですが尊大になることはもっといけません。ほんとうにお客様に役立っていると誇りに思っている商人は、けして卑屈でも尊大でもありません。「教える、教わる」の関係も同じことだと思うのです。
そもそも本物であれば、神にしろ、教祖にしろ、カリスマさんにしろ、威張る必要は全くないのです。金をもらって威張るのでは、まさに二重取り、ではありませんか。威張りたかったら、金を払って威張る、これが正しい。
学びの本質は、学びあい。その解は、
「自分は知らないことがいっぱいあるが、これについては人より知っている。あなたが知っていることで、私が知らないことを教えて欲しい」
「私は、そのことには専門だが、あなたの専門のそれについては無知だ。この際、お互いに学びあいましょうか」
といった互恵思想の上にあるのではないでしょうか。
人は一人では生きられない、といったところに互恵のそもそも(本質)があり、群れや組織や社会が生まれ、また個はそうした全体から学び、相互に進歩発展していく。
これだ、と私は思う。ですからこの「これ」に即しているか、外れているか。 こうした視点で、見れば企業の行く末も見えてくるのです。
もっともそうした中には、教えることが本当の目的ではなくて、「おい、おい、おれは物知りだぞ」といったことを吹聴するため、といった大人子供も少なくないようが。
もちろんそうした場合、「ああ、教えてもらってありがたいな」と思う人も大勢いるのでしょう。未知のことを学ぶきっかけは、自分の子供の頃を思い出しても、親戚のお節介お兄さんがお陰だ、といったものも少なくないことは事実です。
だからといって、教える人がいなければ学ぼうとしない人たちがふくれあがってくることが、良いことなのかどうか。学ぶという背景には、関心を持つ、好奇心、といったものがあるのでは、と、私はそう思うのです。
いつも事務の人にコピーを頼んでいたM社長が、あるとき自分でコピー機を使おうとしたが、どうしても操作出来なかった、という話を、ご本人から聞きました。
「ボケがでたのかな」といわれていましたが。それは違う。
私もそうです。もはや鉛筆で文章を書くことは至難の業(わざ)化しています。漢字を書けなくなっているのもそうですが、文章が出てこない。頭が働かないのです。バイパスが出来たため、元の国道がぺんぺん草、あれです。
教える、教わるといったことに対する問題は、上に上げてきたこと以外にもあります。教えた人が、「おれは物知りだぞ」といった自己充足感の類(たぐい)から、「おれはこうして成功した。これで億万長者になれ」という類まで含めて、教えた人に得があるように出来ている、ということです。端的に言えば体験が売り物になる。それは商売ということで、目くじらを立てることではありません。
ですが、商売なら謙虚さがなくてはならないのでは、と思うのです。成功することは素晴らしいことで、うらやましいこと。ですがその体験を売り物として扱うとなると、それは商売。ならば商人としての謙虚さがあってしかるべきでは、ということを申し上げたいのです。
でないと。他の多くの商人が迷惑です。「もみ手をして・・・」、と昔から揶揄されているぐらい商人は、謙虚さを飛び越えて卑屈なぐらい低い姿勢をとおして、商いに努めてきているのです。
売る側は卑屈になってはいけません。ですが尊大になることはもっといけません。ほんとうにお客様に役立っていると誇りに思っている商人は、けして卑屈でも尊大でもありません。「教える、教わる」の関係も同じことだと思うのです。
そもそも本物であれば、神にしろ、教祖にしろ、カリスマさんにしろ、威張る必要は全くないのです。金をもらって威張るのでは、まさに二重取り、ではありませんか。威張りたかったら、金を払って威張る、これが正しい。
学びの本質は、学びあい。その解は、
「自分は知らないことがいっぱいあるが、これについては人より知っている。あなたが知っていることで、私が知らないことを教えて欲しい」
「私は、そのことには専門だが、あなたの専門のそれについては無知だ。この際、お互いに学びあいましょうか」
といった互恵思想の上にあるのではないでしょうか。
人は一人では生きられない、といったところに互恵のそもそも(本質)があり、群れや組織や社会が生まれ、また個はそうした全体から学び、相互に進歩発展していく。
これだ、と私は思う。ですからこの「これ」に即しているか、外れているか。 こうした視点で、見れば企業の行く末も見えてくるのです。