先の、続きである。
カンニングへ戻して、次へ進みたい。
これは今いえることだが、昨日述べた2つのこと(1-道徳的意味合い、良心の呵責といった側面から、2-リスクの大きさと恐れから)を別にしても、やはり、やらない方が、良かったのである。損得といった卑近な観点からも、やらない方が得したのである。なぜなら、カンニングは合格するための有効手段の一つ(?)ではあろうが、こつこと勉強することで得られるもの(成果)はゼロに等しいからである。
学ぶことにおける成果が、為すことによる積み重ね(プロセス)であるとしたら、このプロセスがない、ということは、学びそのものの意義を失うことになる。
なにを、分かり切ったことを、といわれるかもしれない。だが人は往々にして、失敗体験や挫折を敬遠し厭い、うまくいったこと、成功だけをひたすら求めているのではないか。たとえば、「要領が良い」といったいいかたのなかにはそうしたニュアンスがないとはいえまい。
フルマラソンの42.195㎞をバイパスし、1位でテープを切ってもルール違反として賞賛どころか非難される。しかし、商人たちが他人の成功体験なりノウハウを得ることは、その入手手段が法に触れない限り、何ら問題にされない。
経営者の中には、知識を仕入れ、それを元に行動、体験の試行錯誤で、自分ありの生産物を創る、という過程を厭い、いきなり成功なり、経験なりねノウハウなりパッケージを手にして、いわゆる成功者になることに憧れ、狙う。その事自体は、子供じみているといった誹りを受けようとも問題ではない。
ここで問題視したいのは、そのことが、いわば他者からの借り物で物事を判断することで、自分の判断をバイパスすることである。あるいは他人の判断に委ねることで、自分の判断力が退化することへの不安である。
つまり、カンニング同様、行動、体験による自らの創造性(知恵といってもいい)がますます欠乏する。欠乏するからまた判断を他者に求める、といった悪魔のサイクルに陥ってしまう。その不気味さ、怖さ、それが私の頭をよぎるのである。「私は悪魔に支配されていたのだ。悪魔の性で、私には責任がない」。
こうした言い訳は、ホラー映画のセリフに止めて欲しいのである。
カンニングは、1にそれに熟知している人がいること。2に、みんなが同じ答えを求めて競うということ。この2つを前提に成り立つ。
後編に続く.
カンニングへ戻して、次へ進みたい。
これは今いえることだが、昨日述べた2つのこと(1-道徳的意味合い、良心の呵責といった側面から、2-リスクの大きさと恐れから)を別にしても、やはり、やらない方が、良かったのである。損得といった卑近な観点からも、やらない方が得したのである。なぜなら、カンニングは合格するための有効手段の一つ(?)ではあろうが、こつこと勉強することで得られるもの(成果)はゼロに等しいからである。
学ぶことにおける成果が、為すことによる積み重ね(プロセス)であるとしたら、このプロセスがない、ということは、学びそのものの意義を失うことになる。
なにを、分かり切ったことを、といわれるかもしれない。だが人は往々にして、失敗体験や挫折を敬遠し厭い、うまくいったこと、成功だけをひたすら求めているのではないか。たとえば、「要領が良い」といったいいかたのなかにはそうしたニュアンスがないとはいえまい。
フルマラソンの42.195㎞をバイパスし、1位でテープを切ってもルール違反として賞賛どころか非難される。しかし、商人たちが他人の成功体験なりノウハウを得ることは、その入手手段が法に触れない限り、何ら問題にされない。
経営者の中には、知識を仕入れ、それを元に行動、体験の試行錯誤で、自分ありの生産物を創る、という過程を厭い、いきなり成功なり、経験なりねノウハウなりパッケージを手にして、いわゆる成功者になることに憧れ、狙う。その事自体は、子供じみているといった誹りを受けようとも問題ではない。
ここで問題視したいのは、そのことが、いわば他者からの借り物で物事を判断することで、自分の判断をバイパスすることである。あるいは他人の判断に委ねることで、自分の判断力が退化することへの不安である。
つまり、カンニング同様、行動、体験による自らの創造性(知恵といってもいい)がますます欠乏する。欠乏するからまた判断を他者に求める、といった悪魔のサイクルに陥ってしまう。その不気味さ、怖さ、それが私の頭をよぎるのである。「私は悪魔に支配されていたのだ。悪魔の性で、私には責任がない」。
こうした言い訳は、ホラー映画のセリフに止めて欲しいのである。
カンニングは、1にそれに熟知している人がいること。2に、みんなが同じ答えを求めて競うということ。この2つを前提に成り立つ。
後編に続く.