経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

多角的

2004年05月16日 | Weblog
 徳島へ行ってきた。以前だと朝6時半に家を出て、7時の1番の特急で着くのは17時、帰りも22時頃。今回は新幹線ができたおかげで8時50分にのっても16時には着く。便利になったことを実感したが、考えてみたらコストは1万円近く高く付いている。時間はコストで買えるとみるべきか。あるいは便利は金がかかると見るべきか。
 だが2冊は読了できていた文庫本が1冊だけとなる。これはどうみよう。
 わかったことは、コストがかかった分を、どうやって生産性として還元できるかということ。それも徳島での会自体での生産性が、新幹線を使ったから上がるということはない。節約できた時間だけの使い方如何で、生産性は左右されることになる。
 こうしたたわいのないことでも、多角的に考えることはおもしろいし、旅ならではのことであろう。
 ちなみに徳島での話は「多角的に考えよう」。

日常の中の断片

2004年05月13日 | Weblog
 「専門バカと専門外」についてのちょっとしたエピソードがあったので、実は早起きして、ここで書き始めた。だんだんその題材に引き込まれ、おもしろくなりつい、ふくらんできて、長文になった。
 そこで、これを明日発行するメルマガ「白圭、風のたより」へ回すことにした。
 メルマガを2つ発行している。HPが2つ。掲示板が6つ。ブログが3つ。ほぼ毎日これらにカキコミをしている。「そんな暇あったら、ちゃんとした書き物できるでしょうが」、と親しい友人から言われたことがある。それは違う。私は、これらに書き込むことで、それが膨らんで、また自分が魅せられて、ここからほとんどの執筆が生まれているのである。これまで原稿用紙やワープロ時代まで含めても、まとまった固まりとしての原稿書きしたことはない。
 日々気づいたことをメモやテープに断片とし記録しておく。それがふくらみ、コラムになり、それがまとまったら本の執筆となる。 こうしたやり方で、分筆・共著を含めて20冊の本を出した。自費出版が別に3冊。はそれでもこれから残された一生、半年に1冊は出せるだけの断片稿は、このパソコンに十分ある。これからも加わるだろう。この文章だってその断片だ。
 どう生きようと死ぬまで生きているのだから、その生き様のスケッチが、私の場合は、分厚い書物に別枠に時間を確保して書き上げるといったやりかたでなく、日々生活の中で、数行程度、パソコンのアッチコッチに、メモや日記風に記録する、ということだ。
 なにも誇るつもりで書いたのではない。仕事を仕事として別枠で生きるとしたら、時間いくらあっても足りないが、日常の生活として仕事も含めてしまえば、どうだろう、と言いたかったのである
 慎太郎の若いときの作品に「キリマンジェロの狼」という小説がある。その中で、「幸福は固まりではない。ガラスの破片みたいな小さな喜びを日々拾い集めることだ」といった意味の文章があって、飛び上がるほど興奮した。「ほんとうにその通りだ」と、それから40年以上、そうした生き方を通して実感している。大きなものを掴まなかった一抹の寂しさがないことはないが。
 

◎◎様

2004年05月11日 | Weblog
 以前、私のHPの「旅の宿から」に、我が川内市民病院では、患者を呼ぶのに、「◎◎さま」、それに実に新設で、場所を尋ねたら、目的の場所まで案内してくれる。だからわざわざ病気になってでも、「行きたい病院」だ、といったことをご紹介した。
 今日は、その楽しい楽しみの「そこ」へ、基本健康診断を受けに行った。約片道8キロの路を、着替えを入れたリックを背負ってルンルン気分で。天気はからり、風はそよ風。最高の気分である。
 相変わらず、受付に女性もこの上なく優しい。だが昨年と違っていた。働いている人が、やたらと忙しそう。走り回っているのだ。
 そして、名前を呼ばれた。「田上さん」。
 診療室でも、検査室でも、「田上さん」。

 案内は、どこの病院より優しく丁寧ではあるが、昨年みたいに案内してくれることはなかった。

団子だけの人たち

2004年05月10日 | Weblog
 雅さんが「脳開雑記」で、「花より団子」の話を書かれている。おもしろかった。団子が自分、実利、今、花が,他者、文化、将来(さき)と置き換えて、物事の判断のときに使うことだ。そして行動まで整えてこそ、花が生きる。
「キミ、それは今の危機を救うことはできるが、先の対策にはならないのじゃないね」。三菱系の大会社の副社長ぐらいだったら、自分の保身、今の実利だけじゃない、戦略でものを判断し、そういうのが当然だ。だからこの連中は経営者失格。しかも人間失格者がトップを占めていた。そして、団子を取る意志決定の結果、団子を得て会長へ出世する。辞めて大学教授だ。但し短期的には、だ。
 花だけでは生きられない、といった言う人があろうが、それは事実だ。「だけ」では生きられない。だからからこそアクセルとブレーキが車に付いている。自動車屋がそんなことも知らないわけだ。経営はバランスでみる。経営者がそんなことも知らなかったわけだ。短期的良しの考えでは、教育はマイナスだ。おそらく人の親であろうが、そんなことも知らなかったわけだ。
 「だけ」しか使えない人は、社会を壊し、人生を狂わす。
 

無駄

2004年05月08日 | Weblog
 老子の思想「タオ」に、「無為を為す」という言葉がある。どうもここ長い間、私は無駄を無為とし、無駄を惜しんできたようだ。とにかく時間を惜しんで、結局時間を無駄にしてきた感がする。
 一例で言えば、ここ数日、原稿書きに行き詰まり、どうにもならなくなった。昨日、ええい、と思って1日潰すつもりで、鹿児島市の団地をまわった。何のために?無目的、しいていえば気晴らしにである。
 これがよかった。
 今日は、不思議なようにつかえが取れ、原稿が1編完了。今送信したところである。
 無駄を積極的に為す、ボーットすることも、そういう意志決定をもって為しているわけだ。といった程度は言葉の世界ではわかっていたこと。だが実は行動にできず、わかっても射なかったことになる。そのことに改めて気が付いた。やはり無意味なことも含めて動かなければならない。否、この世に無意味はないのである。その「無意味」すら、意味があるのだから。

無目的にぶらりと

2004年05月07日 | Weblog
本当に久しぶりに、鹿児島市内のマンモス団地の方を回ってみた。
10年ぐらい前は時間があると町を見て回った。それが最近、用があるとき目的地へ最短で往復するだけ。
 10年ぶりの団地、そこへ行く道々はどこも全く様変わり。道路も変わっていたし、記憶にある目印になるものがほとんど無くなっていた。今、酒店の執筆をしているので、車の中からだけだが、酒店をみた。ほとんどが寂れている。
 特に小さな店ながら、超繁盛店だったK店が、外から見るだけでその寂れようがうかがい知れ、とても中に入る勇気が出なかった。
 
 無目的で町をぶらりこそ私の原点だったのに、それを長い間怠っていたことを実感した。かって叫んだ。「書を捨て、町を歩こう」。今、「インターネッtトをいいかげんにし、町を見よう」、と叫ぼう。

 これだけでも今日はいい日だった。

新報・知覧さんとの最後のメール

2004年05月06日 | Weblog
田上さん、知覧です。
本当にお世話になりました。
ついに田上さんとは原稿を通じてのお付き合いに終わりました。せっかくお送りいた
だいた原稿も掲載が不可能になりました。申し訳ありません。新報への長いご支援に感謝します。




編集局長 知覧 哲郎様

大変にお取り込み中、お心遣いをいただき、申し訳ありません。
大学を卒業して、入ろうと考えていて、結局さつまやへ入り、1年遅れで私の家に居候していた親友の下関の中村悟君が御社にお世話になりました。その頃は御社は原田町にありましたよね。新聞記者への未練があった私は、中村君を訪ねて、よく夜、遊びにいきました。その頃から争議で揺れていたのを覚えています。
 私の同僚のA子さんが、中村君と結婚式の夜、なんと3人で彼の実家で川の字で寝たことを思い出します。
20年近く、正論異論,書かして頂き、青春時の思い出とともに重ねていただき、心から感謝を申し上げます。
 もうずいぶん前です。常務になった中村君や編集局次長の寺師さんやらと天文館でご一緒したこと、昨日のようです。
 1年以上中村君とも会っていませんが、最近始まった彼の評伝「岩谷松平物語」の執筆を楽しみにしていました。最後まで読むことことができず、残念です。彼の悔しさを思うと、胸が痛いです。
 これから、なにやかやと大変でしょうが、どうかお元気で。こんなことしか書くことしか力のない、自分を悔しく思っています。

 知覧様、中村君や寺師様、皆さん方の今後のご多幸を心よりお祈りしておりま
す。よろしくお伝えください。またどこかでお会いできたらいいですね。それまで元気に、さようなら。 
                        田上康朗拝

人間じゃない

2004年05月06日 | Weblog
 三菱自動車に関しては、これまで何回か書いてきた。次々と背筋の走るようなことが、表に出てくる。「企業犯罪だ」などと逃げてもらって欲しくない。企業が犯罪を起こすはずはない。すべて人だ。経営陣営の人の意志決定だ。その彼らが、自分たちの業績や出世や保身のために、人を殺す。その結果、当時の副社長は、その後出世して会長になったのである。会社大事と言うが、結局は己の大事なのである。だから事故にあった者が自分の孫であったとすれば、「会社のため隠す」などとは意志決定しないはずだ。しかも、この連中は、自分の会社のではなく、部外者、第3者の整備不良のせいと、責任を転嫁ではなく、他者に押しつけている。これはひどい。
 先ほど、当社の広報室の社員からコメントがあったが、「警察へ協力する」を何度繰り返したろう。その一点張りで、人間の顔をしていない。今まで突っぱねてきたのであるから、これから協力などど、しおらしいことをいってまた騙さないと、どうしていえようか。
 こうした会社は、再建の必要ない。無くても困らぬ。こまるのは、こうした人間の仮面をかむった連中だけだ。人間の言葉で「すいません」の一言すら言えない連中の作る製品、売る商品を買う気はない。幸いわが家には、この系列も含めて一品もないが、今後は、この系列の製品は不買を宣言する。
 こういう会社を大きくしたのは、やはり消費者の私たちにも、一抹の問題があろうから、だ。

鹿児島新報さようなら

2004年05月05日 | Weblog
 20年間、コラムを書いていた鹿児島新報が、今日で廃刊になった。大学時代の親友、下関からこの新聞社に入った中村 悟君が役員をやっている関係で、編集長やベテラン記者のほとんどを知っており、人一倍の愛着があった。人の死も悲しいが、法人の死も悲しく辛い。人なら「ご冥福を祈る」なのだろうが、企業にはなんといってよいか。享年45歳。若い死である。