老子の思想「タオ」に、「無為を為す」という言葉がある。どうもここ長い間、私は無駄を無為とし、無駄を惜しんできたようだ。とにかく時間を惜しんで、結局時間を無駄にしてきた感がする。
一例で言えば、ここ数日、原稿書きに行き詰まり、どうにもならなくなった。昨日、ええい、と思って1日潰すつもりで、鹿児島市の団地をまわった。何のために?無目的、しいていえば気晴らしにである。
これがよかった。
今日は、不思議なようにつかえが取れ、原稿が1編完了。今送信したところである。
無駄を積極的に為す、ボーットすることも、そういう意志決定をもって為しているわけだ。といった程度は言葉の世界ではわかっていたこと。だが実は行動にできず、わかっても射なかったことになる。そのことに改めて気が付いた。やはり無意味なことも含めて動かなければならない。否、この世に無意味はないのである。その「無意味」すら、意味があるのだから。
一例で言えば、ここ数日、原稿書きに行き詰まり、どうにもならなくなった。昨日、ええい、と思って1日潰すつもりで、鹿児島市の団地をまわった。何のために?無目的、しいていえば気晴らしにである。
これがよかった。
今日は、不思議なようにつかえが取れ、原稿が1編完了。今送信したところである。
無駄を積極的に為す、ボーットすることも、そういう意志決定をもって為しているわけだ。といった程度は言葉の世界ではわかっていたこと。だが実は行動にできず、わかっても射なかったことになる。そのことに改めて気が付いた。やはり無意味なことも含めて動かなければならない。否、この世に無意味はないのである。その「無意味」すら、意味があるのだから。