経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

私の事務所から専門書が消えた、その理由。

2004年05月31日 | Weblog
 文章は、うんうんうなって書けるものではない。達観したような言い方をしているが、文章を書くときはいつも反省を込めて、そう実感している。どうしたとき書けるかは、はっきりわかっている。外部からの刺激だ。これを分解すると喜怒哀楽である。喜ぶこと、怒ること、悲しいこと、楽しいこと、これらは間違いなく外部から受けなければ、内部から勝手に発生できないものである。
 だからパソコンがない頃、この期のように仕事が無く外へ出ない日が続くと、「暇だから一つ、執筆となりを」と思う意欲はあっても、ほとんど書けなかった。
 家人的にいうなら、飯の種にもならない文章だが、私にとってはそんなことはどうでもよく、とにかくどんどん文章が、出てくることは、実に快感であり、嬉しく、楽しいいことなのである。出てこないと気分が悪い。だから、「うんうん唸って」という状態はいやだ。避けたい。そんなんで書いても、ろくでもない文書に違いないからだ。
 さて前後したがその理由。パソコンのおかげ。とくにメールのやりとり。このおかげといってまちがいがない。
 以前メルマガにもにも書いたが、このメールのやりとりを、定型文や打ち返しですましたり、できるだけ短く、といったことは、私にとっては、最大のもったいない話、機会損失になる。
 だからどんな仕事をしているときでも、事務所にいる限りメールが1つ入ったら、開く。メルマガや在宅、出会い系でない、個人のメールだとその場でたいてい返事を書く。それは義務感や律儀だから、といったものではない。そのメールで示唆を受け、触発されたこと(それは発信者が意図しないものをも含めてだが)によって、発想やヒントが生まれるからである。私が文章の90%は、こうした隻句か元になって生まれたものである。
 こうなると、古典とか小説を別にして、たとえば経営の本などほとんど不要になる。友人らのメールが取って代わって、有り余る貢献をしてくれるからである。こうして私の事務所から専門書が消えた。
 これは少し理を補足しておきたい。私が本に求めるのは、そこに書いてあるノウハウや言葉ではない。既述したとおり、ひとことでいえば「刺激」なのである。あるいは「思想」なのである。専門書はその点、もっとも劣る、しかも人間性が欠如している、情報としても古い、普遍性に欠ける、というのが以前からの私の理解である。
 それでも専門書を買っていたのは、白状するが、私の他人に関するスケベ心とのぞき見への好奇心、それにミエ以外なにものでもない。