経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

ある時代の終焉ー後編

2007年02月14日 | Weblog

昨日は、カンニングは、1にそれに熟知している人がいること。2に、みんなが同じ答えを求めて競うということ。この2つを前提に成り立つ、で終えた。その続きである。
 この2つの条件を満たす時代を別の言葉でいえば、「画一化の時代」ということにならないか。この時代の特徴は、様々なあの手この手のビジネス・モデルがあふれていること。次々経営手法があふれるように出てきて、やがて消えていくこと。それをとっかえ、とっかえ追うことが、かっこいい経営者、出来るビジネスマンのモデルの一つであった(過去形にしているところに、私の意図がある)。
 経験した人がいてこその専門家、同じ答えを前提の模範解答。過去のノウハウが活きてこそデーターベース、先進モデルがあってこその先進地視察である。
 それらが一切使えない未知の時代になると、只ひたすら自らの経験を積み重ね、その中から、試行錯誤を繰り返し、「今」に対応できるものを創造し、それらで普遍的なものをルール化していく以外、術(すべ)がないのである。
 ところが、これをやろうにも、上に書いた悪魔のサイクルが働きつづけ、そこから逃れられない。こう考えると、今やっている革新は、これまでの丸い土俵上での、それの繰り返しにすぎない。
  「はたして丸い土俵でやっていけるのか」。
  「三角の土俵で為されなければ生きていけないのではないか」
  「いや、土俵などそもそも不要ではないか」  
  「そうじゃない。土俵に変わる何かがあるはずだ」
本来必要な革新の議論は、丸い土俵の是非を問い、それを捨てるところから始められなければならない。それを、前提をそのままにして、議論をすることに始終している。
 だが、他人の頭を借りてきた自分の頭では、他人の頭を捨てることが出来ない。経験は保守性を強くおびるものの、貴重なものである。事実、それで今までやってこれた実績がある。「それを捨てろとは・・・」。まずは捨てることができない。
 よしんば捨てたとしても、自分で創造が出来ない。捨て去る必要性を感じても、その後にくるものが創造できないでは、捨てられない。。
 だから、これまでどおり、みんなが、他の人を見る。他の人の口からそれが出るのを待つ。他の人の頭を借りて、次にくるものを創造しょうと思う。
 笑えるどころか、笑えない不気味な沈黙が続くことになる。
 この沈黙は、
 アンデルセンの「裸の王様」における、あの子供が、ここへ出てきて、こうでも言ってくれない限り、その沈黙は破られない。
「あっ、大人たちみんなわかっている顔をしていたけれど、本当は誰一人わかってなかったのだ。大人はみな、あの裸の王様なんだ!。
 だが、話はここで終わらない。
 ここで私たちがアンデルセンのこの童話で、見逃していることがある。その国には、たくさん子供がいたであろう。おそらく、どの子供も、王様が裸であることは知っていたであろう。だが、彼以外、だれしもが、口を閉ざしていたのだ。このことを見逃してはなるまい。
 このことを考えたときに、次の世界を創る子供達に対する、今の教育(だけではないが)
のあり方に、いや教育そのもののもつある側面に、背筋が寒くなる思いがするのである。

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