経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

あの国が、こう見えてきた。

2006年12月22日 | Weblog
あの国は、前回もそうだったが、今回も条件の一つに「現体制維持の保証」を入れている。国際協調をとってない国が、なぜ自国の体制の維持に、他国の保証を要求するのか。

私は国際問題どころか自国の政治にも疎い。閣僚どころか政治家誰一人とて会ったことはない(この3月、結婚式でG議員とたまたま同席したことはある)。国会に行ったこともない。霞ヶ関も知らない。政治の本を読んだこともない。素人にすぎない。
 
 だから、こう考える。社長が手形に裏書きを欲しがるときの真意はいかん、と。そして次にそのときの自分の心に浮かんだものが、普遍性があるかどうかをみる。
 以下、その私の妄想の範囲での話。
 
 本来は、さっさとどこかの時点で妥協して経済解除をしてもらった方が、と思うのが常識だが、この常識を取らない。それはなにも意固地とかメンツがあるわけではなかろう。そんなもの、食えないときにはなんの足しにもならないばかりか、じゃまになる。

 ここに、3つの「こと」が見えてくる。
 1に、彼ら、否、彼の真意が、国の飢えより、我が身の保証にあること。現体制維持を望んでいるのは、彼と彼のファミリーと取り巻き一部であって、国、国民ではない(あくまで想像の範囲だが)ということ。

 2つめ。とはいっても敵対国関係者に向かって、おねだり、お願いはやりたくない。夫婦げんかは、近所に知られたくない。ましてや、だ。
 それをあえてというか、厭わずやっているからには、よっぽどの事情がある、と考えざるを得ない。それにこの条件は、以前はなかったことを考えれば、事態は逼迫している、と考えたい。

 3つめは、強硬姿勢は、やはり、「恐れている」ということ。恐れは2つが考えられる。1に国内の暴動、暗殺といったこと。2に、中国、ロシアから見放され、ひょっとしたら先のイラク、やがてイラン、次に俺のところも同じ状況に、といった不安、恐れをイラク。これをイラン心配という。

 人には誰しも両親と良心がある。正しい道を歩んでいないと子供の頃は両親を恐れる。大人になれば、自分の良心から外れることで、イラク心配をし始め、いろいろ妄想し始める。その過程で自分の心がチクリとする。これを良心の呵責というが、これは人が本来持っている良心に反した行為は、他人ではなく自らが気づく。それで微調整することで生き抜くことが出来る、といった解で大きくは外れていないと思う。まあ標準体温と体温計の関係みたいなもの。

 ちなみに、イラクも、イランも、この国も共和国(ともに和するくに)である。このコピーと実態の乖離は、なにも企業のお家芸ではない。自分の良心からそれがわずかではあっても外れたことで、チクリとすることを無視していると、こうした大きな乖離すら不思議に思わなくなるぐらい、言葉が堕落している。良心に代わって、そうしたことでチクリとこないことが常識、常態化し、それが一種の規範となり人を知らない間に縛る。体制者はこれを活用するわけだ。いずれにしろ、チクリを感じない心、そのことが一番怖いことだ。

 経営も然り。
 この論を、置き換えで考えれば、企業は、大きくするものではなく、お客様の支えの手応えで大きくなっていくもの。それを大きくしようというところが、当たり前化し、おかしいな、とチクリも感じなくなった。それが見よ、毎日新聞を賑わして、というおきまりの私の持論になる。賛同していただけるかな、と思う。

 大きくなりたい、と急ぎ、力む背景には、やはりあの国と同じ、3つの憂いがある、と観ていい。そうした企業の行く末が、倒産という形で出るとしたら、今、栄華を誇っている企業の行く末を、この今、観るのはそう難しいことではない。

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