経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

つながり

2007年03月12日 | Weblog
人が生きていくためには「つながっている」という概念が欠かせない、と私は思っています。

 たとえば、触発は「触」だから、触れる相方が不可欠、といったように。ある人が、私のHPのブログをみて、メールをくださった。それを読んで「思ったこと」を、メールで彼に書いた。この「思ったこと」は、間違いなく,イコール触発を受けたこと。 そのある人のメールなりカキコミがなかったら絶対に出てこなかった。そう考えると、発想には、往々にして思いも掛けない方向性、といった側面があります。

 逆に言えば、計画的にとか予定通り、と人なりの管理下に置いたとたんに、その分、つながりは限定され、発想も制約を受けることになる。

 自分で考えたこと。独創的だ、といっても、人は人や事物の中、すなわちつながりの中で、触発を受けてでてきたもの、と思います。

 世の中には、予定通りと予定外がある。この予定を想定と置き換えてもいい。大事なことは、前者より後者が圧倒的に広大であるという点です。そして発想、思いつきなども自分の想定外のところで、より生まれる可能性が高いのでは、と思うのです。

 世の中のすべては、「つながり」でできていて、つながっているからこそ生きることができる。これを逆に言えば孤立していたのでは生存できないということです。孤立とはまさにひとり、つながりとは無限。前者が以下に優れていても、後者に勝ることはない、ということ。だから、「つながり」を大事にした、生き方がベストと考えています。ちなみに謙虚さを失うとは、このつながりを失うことになる。そう考えたらわかりやすい。

 なんらかの縁で数々のつながりができ、その中でとりわけ親和性の高いものが、群れ、あるいはグループやネットワークをつくることになります。そして群れは群れとして、相互に情報交換を行い、連携性を高め、群れの整合性の確率や精度を高くしていくことで、群れとしての機能性、目的が生じるとそれは有機的に結合され1つのシステムになる。

 個は、個として完全に独立を保ちつつ、こうしたシステムのもとに生きていくことになる。これが社会で、この世のシステムといってもいい。
 
 他とのつながりを損得とか、利害とか、効率とかいった、おおよそ非人間的な要素でしか見ず、他との関わりをいわゆる企業の論理における関係上にしか構築できないは企業は、世間から孤立するだけではなく、同時に他の企業体にとっては、「困る」存在になる。だから結果として排除されることになる。
 
 では、「つながり」とは何か、
 1945年に封切られた「素晴らしき哉、人生!」というアメリカ映画があります。この映画が終わる直前までは、「何が素晴らしき哉か、これでは不幸哉だ。これでは看板に偽りありだよ」、と、最初見たときに思いました。
 エンドマーク直前、「友がいる限り、敗北者ではない」という天使から主人公へのメッセージが出てくる。

 ここでは観客の私は、人の一生で、なにが「素晴らしいことか」、2時間の映画を頭の中でプレイバックして、気づくことになる。他者と競い孤立的成功を得ることは、社会システムから排除され孤立化することだ。それが成功のように思えるが、実は・・・、といった「つながり」での見方をすれば、自分のこれからの生き方をどこへ軸足おくか、あるいはあの北の国の行く末はどうなるか、といったことまで、見えてくるような気がしてくるのです。
(映画に興味がある方はhttp://geocities.yahoo.co.jp/dr/view?member=jatudonka をご覧ください)。

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