なんだか、残暑と呼ぶには早すぎるような猛暑が連日、続いております。不思議なことにここ2日、大雨雷注意警告が出されながら、一滴も雨が降らないで、解除になる、といった珍現象が続いております。
この猛暑で、もうしょうがないぐらい売上が上がっている業種もあり、逆にどうしょうもないぐらい、売れないといった業種や物があるのかもしれません。
経営指導を専門にしていますから、厳しいいいかたかもしれませんが、暑さ、寒さ、天候もある程度なら、それらは情報の一つとして、受容する人なら、売上を上げる方へ、活かすことが可能です。
しかし、今日も他の自治会長さんと、あちこち回ってみたのですが、もう大変な水不足です。人間なら、水道が出なくなったらコンビニなどで、お金を出して飲み水を買うことが出来ますが、オアシも足もない田んぼの稲は、どうしょうもないのです。
彼らは水が無くて、「大変だよ」、「飲みたいよ」と叫んでいるわけではないのですが、放っておくと死んでしまう。いわゆる不作では人間が困ることになりますから、お百姓さん達は、朝早くから、田んぼの様子を見に行っては、水の手当をしてと、今、大変だそうです。
私も(偉そうに胸を張り)県の農林水産のお手伝いを長くやっていますから、そんなことは知っていました。でも、それは知っていただけのこと。実感の欠けた知識。
こうしてお百姓さんと田んぼを回っていると、何にも知っていなかったことがよくわかります。プロのお百姓さんたちからみたら、これも嘘だ、といわれることでしょう。その通りです。
水が無くて、稲の命が絶たれる。そのこと、すなわち、お百姓さんの命が絶たれること。この実感が、プロのお百姓さんにはある。それが、車の窓から田んぼをのぞき込んで、「わかった」といっている私には、ほんの一筋もない。私のわかった、というのはそのレベルなのです。
農業は、専門外だから、といって逃げれたとしましょう。では仕事の経営、専門の経営では、私は経営者の心の痛みを共感できているのでしょうか。そのことが頭をよぎって、窓から見ていた田んぼが一瞬見えなくなったぐらい、ショックを受けました。
稲の命を自分の命として共感しているお百姓さん。それに対して、仕事先の企業の経営者と、そうした共感ができているのだろうか。疑問形にすることもない。ノウです。
昨日見た、映画「ここに幸あり」(けんもち聡監督。ちなみに大津美子さんの歌とは一応無関係)は、その意味では、素晴らしい作品です。
プロだが、まったく売れない俳優が、雇われて俳優志望の青年 邦に、俳優になるための基本的なこと。たとえば発声練習。身体や顔の緊張を取ること、歩くことといったことを指導するのです。福岡県糸島にある200人ぐらいの人口の姫島での話。この俳優さんが幸、という人なんで、「ここに幸あり」。
この幸さんは、飲み込みの悪い、島の青年 邦と、島の日常風景と、島の人たちの関わりのあり方に、自分が俳優として根本的に欠けていたいたものをみつけ、突然契約を打ち切って帰る。何で?と問う邦に対して、幸は答える。「俺には、おまえに教えるものはなにもない」。
「俳優が教えたのは、技術。その彼にかけていたのは、日常との関わり。それを邦と姫島が教えてくれた、ということです。」。この「 」の中の解は、私の理解。映画では一言もそんなことは言っていない。この映画を見る直前に、先ほどの稲とお百姓ののことを、体験していたから、この解が出てきたのだろうと思います。
まだ、まだ、いやまだまだといえるレベルにすら達していないな、と思いながら、不思議に心はうきうきで良い気分でした。
日常性を切り取ったら、底にはある物も実はない。背景のない人物は、存在しないのとおなじこと。どうして、このことに気づかなかったのだろう。エンドマークを目で追いながら、私はこの映画に、両手を合わせたい思いでした。
この猛暑で、もうしょうがないぐらい売上が上がっている業種もあり、逆にどうしょうもないぐらい、売れないといった業種や物があるのかもしれません。
経営指導を専門にしていますから、厳しいいいかたかもしれませんが、暑さ、寒さ、天候もある程度なら、それらは情報の一つとして、受容する人なら、売上を上げる方へ、活かすことが可能です。
しかし、今日も他の自治会長さんと、あちこち回ってみたのですが、もう大変な水不足です。人間なら、水道が出なくなったらコンビニなどで、お金を出して飲み水を買うことが出来ますが、オアシも足もない田んぼの稲は、どうしょうもないのです。
彼らは水が無くて、「大変だよ」、「飲みたいよ」と叫んでいるわけではないのですが、放っておくと死んでしまう。いわゆる不作では人間が困ることになりますから、お百姓さん達は、朝早くから、田んぼの様子を見に行っては、水の手当をしてと、今、大変だそうです。
私も(偉そうに胸を張り)県の農林水産のお手伝いを長くやっていますから、そんなことは知っていました。でも、それは知っていただけのこと。実感の欠けた知識。
こうしてお百姓さんと田んぼを回っていると、何にも知っていなかったことがよくわかります。プロのお百姓さんたちからみたら、これも嘘だ、といわれることでしょう。その通りです。
水が無くて、稲の命が絶たれる。そのこと、すなわち、お百姓さんの命が絶たれること。この実感が、プロのお百姓さんにはある。それが、車の窓から田んぼをのぞき込んで、「わかった」といっている私には、ほんの一筋もない。私のわかった、というのはそのレベルなのです。
農業は、専門外だから、といって逃げれたとしましょう。では仕事の経営、専門の経営では、私は経営者の心の痛みを共感できているのでしょうか。そのことが頭をよぎって、窓から見ていた田んぼが一瞬見えなくなったぐらい、ショックを受けました。
稲の命を自分の命として共感しているお百姓さん。それに対して、仕事先の企業の経営者と、そうした共感ができているのだろうか。疑問形にすることもない。ノウです。
昨日見た、映画「ここに幸あり」(けんもち聡監督。ちなみに大津美子さんの歌とは一応無関係)は、その意味では、素晴らしい作品です。
プロだが、まったく売れない俳優が、雇われて俳優志望の青年 邦に、俳優になるための基本的なこと。たとえば発声練習。身体や顔の緊張を取ること、歩くことといったことを指導するのです。福岡県糸島にある200人ぐらいの人口の姫島での話。この俳優さんが幸、という人なんで、「ここに幸あり」。
この幸さんは、飲み込みの悪い、島の青年 邦と、島の日常風景と、島の人たちの関わりのあり方に、自分が俳優として根本的に欠けていたいたものをみつけ、突然契約を打ち切って帰る。何で?と問う邦に対して、幸は答える。「俺には、おまえに教えるものはなにもない」。
「俳優が教えたのは、技術。その彼にかけていたのは、日常との関わり。それを邦と姫島が教えてくれた、ということです。」。この「 」の中の解は、私の理解。映画では一言もそんなことは言っていない。この映画を見る直前に、先ほどの稲とお百姓ののことを、体験していたから、この解が出てきたのだろうと思います。
まだ、まだ、いやまだまだといえるレベルにすら達していないな、と思いながら、不思議に心はうきうきで良い気分でした。
日常性を切り取ったら、底にはある物も実はない。背景のない人物は、存在しないのとおなじこと。どうして、このことに気づかなかったのだろう。エンドマークを目で追いながら、私はこの映画に、両手を合わせたい思いでした。
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