最近、生命保険会社の人が、頻繁に
このあばら屋に来られる。
契約内容の確認のため、ということらしい。
この業界は、つい最近いろいろ問題がでてメディアを賑わしもした。
それで契約どおりかどうか確認して欲しいといったこと。
応対の煩わしさはあるが、それはよい。
気になるのは、以前に増して、どの会社の担当もそうだが、
「会社としては、それは認めておりませんので」
「本社から、目の前でサインを言われておりまして」、
「控えのコピーは、本社に伺いませんと」
といったようにやたらに、
会社を主語にした言い回しをするのである。
はっきり言ったら、自分以外の主語を用いることで、
万が一の場合の予防線をひき、責任転嫁をはかろうという
怖々、おじおじさが、見え見えなのである。
責任を曖昧にし、ぼかしておく。
この姿勢が気になるのである。
契約時に、言うべきことを言わず、
クライントに聞こえの良い部分を大声で、
自分たちの都合の悪いところを小声で、
といったことが問題になった。
そのフォローが、これだ。
この傾向、なにも保険会社だけではない。
また、今に始まったことでもない。
なにせ、国政を担う、霞ヶ関、永田町では、
こうした主語抜きが主流。
その発祥の地といってもよい。
この両地域では、主語のない話や文章が当たり前の如く
飛び交っている。
ただし、この両者に違いはある。
功績ということになると、
とたんに主語が「私」に変わり、強調するのは後者、
永田町の代議士たちである。
選挙になると、拡声器を付けて、主語を連発する。
企業の経営者は、後者、永田町に近い。
「丸明」の経営者など、その最新事例だ。
経営や会社には、頭も、手も、足も口もない。
だから、
「会社は、君を首にする」
ことなど、絶対にありえないのだ。
だが、言われた方は、妙に納得している態がある。
「うちの犬が、君を首にする」
と言われたら、怒るだろうに。
では、なぜ擬人を、主語にした言い回しをするのか。
擬人化したものを当事者に仕立てて、
自分の責任を逃避する。
自社の責任の所在をぼかす。
実態のないもの、バーチャルに責任を振る。
実態のないもの、バーチャルの威を借りる。
お手伝いさんを、困らせた私を、
「権現様と天狗様に、言いつけるから」
と、彼女から言われた子供の頃を思い出した。
こうしたことだろう。
人は、無意識にあるいは意識的に他者に責任転嫁しがちである。
擬人に振れば、人間である他人に振るより、当たり障りがない。
その分気は楽になる。
そうした効用があることは認める。
だが、そのことで失うものもある。
このことをしかと、認識して置くべきだ。
なぜなら、自分を主語にしないことにより、失うものは
想像以上に大きいと、考えるからである。
私はその大きさを、企業の経営革新指導で、知った。
端的に言えば、
多くの問題を見つけ出した企業が、経営革新の成果が上がる
「その問題の責任は、私にあり」、
とする人が多い企業が、経営革新の成果が上がる
という、確固たる事実からである。
例で示す。
販売不振、つまり売れない状況を、「景気と天気が悪い」とする。
対策は、どうすればいい?
これを、問題を突き詰めて、
「自分の作るケーキが悪い」
「自分の」陳列方法が悪い」
とするのでは、どちらが対応しやすいか。
そして、どちらが業績が上がり、得するか。
答えは、明快だ。
よしんば景気が理由であったとしても、
「景気が悪いからケーキを大きくし、値段据え置きで販売」
と、アプローチするといったことで、工夫・創案ができる。
その結果、「売上が上がる。その得は俺の得」
ということにである。。
私は、いつも、「消費者を主語に」といっている。
購買は、消費者が行うからである。
そして、問題事項は「自分を主語に」と申し上げている。
問題解決は、外の何人も主な得ないからである。
この主語の使い分けが、自分そして企業の進歩発展を決める、
と、私は確信している。
ところが、多くの人は、これを逆にしている。
追い風で前進。
だが、この世。吹く風追い風ばかりではない。
向かい風もある。
ヨットは追い風で進み、向かい風で後進しているか。
違う。
追い風で前進、向かい風でも前進、
この風の使い分け、ヨットマンのあり方こそ、腕前だ。
追い風は、誰でも前進。向かい風には工夫やスキルが問われる。
その意味で、向かい風こそ、他社と差を付けるチャンスなのだ。
そのためには、常日頃から、
主語を自分にする習慣、組織体質を培っておくことである。
私の知る限り、経営革新の優等生は例外なく、
経営者はむろん、パート、アルバイトに至るまで
自分を主語にしている企業である。
主語の使い方で、その人物の器が判る。
それで、その企業の盛衰も読める、としたら
主語の使い方、疎かには出来まいぞ。
このあばら屋に来られる。
契約内容の確認のため、ということらしい。
この業界は、つい最近いろいろ問題がでてメディアを賑わしもした。
それで契約どおりかどうか確認して欲しいといったこと。
応対の煩わしさはあるが、それはよい。
気になるのは、以前に増して、どの会社の担当もそうだが、
「会社としては、それは認めておりませんので」
「本社から、目の前でサインを言われておりまして」、
「控えのコピーは、本社に伺いませんと」
といったようにやたらに、
会社を主語にした言い回しをするのである。
はっきり言ったら、自分以外の主語を用いることで、
万が一の場合の予防線をひき、責任転嫁をはかろうという
怖々、おじおじさが、見え見えなのである。
責任を曖昧にし、ぼかしておく。
この姿勢が気になるのである。
契約時に、言うべきことを言わず、
クライントに聞こえの良い部分を大声で、
自分たちの都合の悪いところを小声で、
といったことが問題になった。
そのフォローが、これだ。
この傾向、なにも保険会社だけではない。
また、今に始まったことでもない。
なにせ、国政を担う、霞ヶ関、永田町では、
こうした主語抜きが主流。
その発祥の地といってもよい。
この両地域では、主語のない話や文章が当たり前の如く
飛び交っている。
ただし、この両者に違いはある。
功績ということになると、
とたんに主語が「私」に変わり、強調するのは後者、
永田町の代議士たちである。
選挙になると、拡声器を付けて、主語を連発する。
企業の経営者は、後者、永田町に近い。
「丸明」の経営者など、その最新事例だ。
経営や会社には、頭も、手も、足も口もない。
だから、
「会社は、君を首にする」
ことなど、絶対にありえないのだ。
だが、言われた方は、妙に納得している態がある。
「うちの犬が、君を首にする」
と言われたら、怒るだろうに。
では、なぜ擬人を、主語にした言い回しをするのか。
擬人化したものを当事者に仕立てて、
自分の責任を逃避する。
自社の責任の所在をぼかす。
実態のないもの、バーチャルに責任を振る。
実態のないもの、バーチャルの威を借りる。
お手伝いさんを、困らせた私を、
「権現様と天狗様に、言いつけるから」
と、彼女から言われた子供の頃を思い出した。
こうしたことだろう。
人は、無意識にあるいは意識的に他者に責任転嫁しがちである。
擬人に振れば、人間である他人に振るより、当たり障りがない。
その分気は楽になる。
そうした効用があることは認める。
だが、そのことで失うものもある。
このことをしかと、認識して置くべきだ。
なぜなら、自分を主語にしないことにより、失うものは
想像以上に大きいと、考えるからである。
私はその大きさを、企業の経営革新指導で、知った。
端的に言えば、
多くの問題を見つけ出した企業が、経営革新の成果が上がる
「その問題の責任は、私にあり」、
とする人が多い企業が、経営革新の成果が上がる
という、確固たる事実からである。
例で示す。
販売不振、つまり売れない状況を、「景気と天気が悪い」とする。
対策は、どうすればいい?
これを、問題を突き詰めて、
「自分の作るケーキが悪い」
「自分の」陳列方法が悪い」
とするのでは、どちらが対応しやすいか。
そして、どちらが業績が上がり、得するか。
答えは、明快だ。
よしんば景気が理由であったとしても、
「景気が悪いからケーキを大きくし、値段据え置きで販売」
と、アプローチするといったことで、工夫・創案ができる。
その結果、「売上が上がる。その得は俺の得」
ということにである。。
私は、いつも、「消費者を主語に」といっている。
購買は、消費者が行うからである。
そして、問題事項は「自分を主語に」と申し上げている。
問題解決は、外の何人も主な得ないからである。
この主語の使い分けが、自分そして企業の進歩発展を決める、
と、私は確信している。
ところが、多くの人は、これを逆にしている。
追い風で前進。
だが、この世。吹く風追い風ばかりではない。
向かい風もある。
ヨットは追い風で進み、向かい風で後進しているか。
違う。
追い風で前進、向かい風でも前進、
この風の使い分け、ヨットマンのあり方こそ、腕前だ。
追い風は、誰でも前進。向かい風には工夫やスキルが問われる。
その意味で、向かい風こそ、他社と差を付けるチャンスなのだ。
そのためには、常日頃から、
主語を自分にする習慣、組織体質を培っておくことである。
私の知る限り、経営革新の優等生は例外なく、
経営者はむろん、パート、アルバイトに至るまで
自分を主語にしている企業である。
主語の使い方で、その人物の器が判る。
それで、その企業の盛衰も読める、としたら
主語の使い方、疎かには出来まいぞ。
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