他山の石という言葉がある。
どうも人は、成功事例に学ぶことには熱心でも、他者の失敗から学ぶことは苦手らしい。 また先のことには多弁になるが、過去のことには寡黙になってしまうようである。
政治家の領収書問題、企業事件、官の接待問題や出張旅費や請求書の水増しなど、よくもまあ、絶え間なく起きることよ、と呆れてしまう。
不思議なことだが、そうした問題が他で起きたら、「この際、うちでも徹底的に調査してみようか」といった積極的な動きは見られない。ことを荒立てるという意味ではなく、こうした機会を活用して、自らのインターナルチェックシステム(内部牽制制度)が機能しているか、組織のよどみはないか、再確認してみることが、組織の浄化作用と学習効果を高める絶好のチャンスと考えるリーダーがいてもおかしくはないはずだが。
それが、他山の石。つまり人のふんどしで、後ほど起きる可能性の高い災いを未然に防げるのだ。層でないときにやると、「おいら達を疑うのか」という反発の声が聞こえてきそうであるが、こうしたタイミングでやると、そうした反発にも説得力ある説明が出来る。
それに、何より「わたし達のところではそういったことは一切ないことが、証明できた」と皆が胸をはって、宣言でき、それを堂々アピール出来るではないか
調査はなにも疑惑解明の専売ではない。清廉の証しにも使えるのである。
ところが行政はもとより、民間会社からも、そういった声が聞かれないのである。うがった見方をすれば、この実態こそ、その組織に少なくとも適切なインターナルチェックシステムが十分機能していない証し、自身がない証拠と考えられるのではなかろうか。
「もう二度と」このようなことは・・・」というおきまりを繰り返しているのは、徹底調査をするのが怖いから、と観た方が事実に近いのかも知れない。
一面的に過去を否定したり清算するといったことではなく、過去の成功事例からも学び、また失敗事例からも学ぶといった両面思考の学習姿勢こそ、組織にとって望ましい姿勢で、肝要なことと考える。
ましてや臭いものに蓋をしても、その蓋まで腐ってにおうから、必ず露見する。だから隠せない、とここは腹をくくって方が賢明である、と、私は考える。
どうも人は、成功事例に学ぶことには熱心でも、他者の失敗から学ぶことは苦手らしい。 また先のことには多弁になるが、過去のことには寡黙になってしまうようである。
政治家の領収書問題、企業事件、官の接待問題や出張旅費や請求書の水増しなど、よくもまあ、絶え間なく起きることよ、と呆れてしまう。
不思議なことだが、そうした問題が他で起きたら、「この際、うちでも徹底的に調査してみようか」といった積極的な動きは見られない。ことを荒立てるという意味ではなく、こうした機会を活用して、自らのインターナルチェックシステム(内部牽制制度)が機能しているか、組織のよどみはないか、再確認してみることが、組織の浄化作用と学習効果を高める絶好のチャンスと考えるリーダーがいてもおかしくはないはずだが。
それが、他山の石。つまり人のふんどしで、後ほど起きる可能性の高い災いを未然に防げるのだ。層でないときにやると、「おいら達を疑うのか」という反発の声が聞こえてきそうであるが、こうしたタイミングでやると、そうした反発にも説得力ある説明が出来る。
それに、何より「わたし達のところではそういったことは一切ないことが、証明できた」と皆が胸をはって、宣言でき、それを堂々アピール出来るではないか
調査はなにも疑惑解明の専売ではない。清廉の証しにも使えるのである。
ところが行政はもとより、民間会社からも、そういった声が聞かれないのである。うがった見方をすれば、この実態こそ、その組織に少なくとも適切なインターナルチェックシステムが十分機能していない証し、自身がない証拠と考えられるのではなかろうか。
「もう二度と」このようなことは・・・」というおきまりを繰り返しているのは、徹底調査をするのが怖いから、と観た方が事実に近いのかも知れない。
一面的に過去を否定したり清算するといったことではなく、過去の成功事例からも学び、また失敗事例からも学ぶといった両面思考の学習姿勢こそ、組織にとって望ましい姿勢で、肝要なことと考える。
ましてや臭いものに蓋をしても、その蓋まで腐ってにおうから、必ず露見する。だから隠せない、とここは腹をくくって方が賢明である、と、私は考える。