泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、小さな旅で出会った風景等を紹介したいと思います!

「大海人皇子の隠遁(いんとん)の地」の伝承が残る吉野

2017年03月07日 16時32分00秒 | 歴史

飛鳥時代、日本の国作りを行った女帝「斉明天皇」や「持統天皇」が造営したとされる「吉野宮」の跡地がある奈良県吉野町には、大海人皇子が近江の都を去って、吉野に身を隠したと伝えられる場所があります。

今回は、「大海人皇子の隠遁(いんとん)の地」の伝承が残る吉野を紹介したいと思います。

〇「桜木神社」・・・静かな万葉歌の地で、天武天皇が祀られている神社

万葉集にも詠われた「象(さき)の小川」のほとりに建つ神社で、国づくりの神である大国主命・医療の神としての信仰があつい少彦名命と共に天武天皇が祀られている神社です。

天武天皇がまだ大海人皇子といわれていたころ、天智天皇の近江の都を去って吉野に身を隠しました。近江朝の兵に攻められた時、この地の大きな桜の木に身をひそめて、危うく難を逃れたいう伝承があります。その後、大海人皇子は672年の壬申の乱に勝利を得て、飛鳥の浄御原に都を定めて、天武天皇となりました。このあと吉野の宮(宮滝)に行幸されると、篤くこの宮を敬われ、天皇なきあとは、ゆかり深い桜木神社へお祀りしたと伝えられています。

また、大己貴命・少彦名命は、古くから医薬の神としての信仰があつく、特に初代紀伊藩主大納言徳川頼信公は、たびたび病気平癒を祈願しています。

この日も、奥様の病気回復の御礼に来られた方が、参拝されていました。神社の横に流れている「象(さき)の小川」が、とても綺麗でした。

           

〇「林泉寺(りんせんじ)」・・・大海人皇子が身を隠し、天武天皇が林泉寺を仮の御所にしていたと伝承が残る場所

林泉寺は、大海人皇子が身を隠し壬申の乱(672年)後、国栖に再幸した天武天皇が林泉寺を仮の御所にしていたと伝承がある国栖地域に伝わるお寺です。

大海人皇子は現庚申堂のある所に、60日間隠れ籠っていたという伝承があります。壬申の乱(672年~)で吉野に身を隠した大海人皇子(後の天武天皇)が吉野川の清流と気候、風土が適しているため、里人に紙すきの業を奨励されたのが始まりで、国栖地方(現在の吉野町窪垣内)で生産されるところから国栖紙と言われています。

高台にある林泉寺に行くには、案内板がなくて地元の方に教えていただきました。ここまで、逃れたきたのかと思うと感慨深かったです。

     

〇「浄見原(きよみはら)神社」・・・大海人皇子を慰め、勝利を祝った舞が残る場所

吉野川(天皇渕)を眼下に見下ろす断崖の上に建てられている、天武天皇を祭る神社です。創建の由来は、672年に起こった『壬申の乱』に絡みます。大海人皇子は近江朝を滅ぼして、飛鳥浄御原宮に即位して天武天皇となります。国栖の人たちは、吉野で挙兵した皇子に味方し、敵に追われる皇子を匿い、歌舞や酒や食事でもてなしました。即位した天武天皇うを祝う為、浄御原宮へ参った国栖の人々は舞を奏し、『国栖の翁よ・・・』と声を掛けられたそうです。後に南国栖の地にこの神社が作られました。

吉野川(天皇渕)の右岸に参道が続き、断崖絶壁ともいうべき景勝に鎮座する「浄見原(きよみはら)神社」は、古代に引き込まれそうな場所でした。

「大海人皇子の隠遁(いんとん)の地」の伝承が残る吉野町の歴史散策、とても興味をそそられる場所でした!

              

 

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