泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、小さな旅で出会った風景等を紹介したいと思います!

古代下ツ道から近世中街道へ「田原本町」歴史散策(2)

2019年03月23日 17時15分14秒 | 歴史

奈良盆地のほぼ中央に位置する奈良県田原本町は、古くは「俵本」とも書かれた歴史のある町で、かつては古代下ッ道(中街道)に沿った交通の要衝であると共に、豊臣秀吉の時代から江戸期を通して5000石の交代寄合の旗本で、明治に入って政府に嘆願し大名に列した平野氏の陣屋町であった所です。さらに教行寺(田原本御坊)の寺内町という性格を合わせ持った都市でした。この歴史ある「田原本町」を2回に分けて、歴史散策してきました。

前回は、近鉄田原本駅(出発)-津島神社(祇園祭は中和最大の夏祭り)ー楽田寺(中世田原本の中心地)-浄照寺(太鼓楼に江戸時代の面影)-本誓寺(領主平野家の菩提寺)-平野氏陣屋跡(現在は、田原本町役場)・旧町並み(平野氏5千石の陣屋町と寺内町)ー近世中街道(古代下ツ道)までを紹介しました。

今回は引き続き、古代下ツ道から近世中街道へ「田原本町」歴史散策(2)の様子を紹介したいと思います。

今回は、近世中街道(古代下ツ道)ー新町武村邸ー鏡作神社(古代鏡作の中心地)-安養寺(快慶の仏像とご対面)-笹鉾山古墳(完形の馬形埴輪が出土)-鍵の蛇巻き・八坂神社ー千万院(創建は聖徳太子)・池神社(秋祭りは山車は圧巻)-唐古・鍵遺跡史跡公園(散策終了)を紹介したいと思います。

〇「新町武村邸」は、古くは河内に居住し戦国時代の末ごろに八尾新町に移り、それ以来この地の名主として明治維新にいたるまで庄屋をつとめた家柄であると伝えられています。特に離座敷は、昭和23年、文化財保護法旧法の重要美術品の指定を受けましが、新法には移行されていないようです。道沿いの家屋は、かなり傷んでおり文化財保護の難しさを痛感させられ景観でした。

            

〇「鏡作坐天照御魂神社(かがみつくりにますあまてるみたまじんじゃ)」は、4~5世紀にかけて、鏡類を製作鋳造していた鏡作部がこの地一体に居住し、御鏡並びに遠祖を氏神として開いた神社であるとされています。毎年2月下旬に、御田植祭が行われています。お田植舞、豊年舞、牛使いが行われ、近隣の氏子でにぎわうようです。牛使いが乱暴にすると、慈雨に恵まれるといわれています。

また、拝殿に行く途中にある 「鏡石」は、江戸時代に鏡池から出土したものだそうです。鏡作成の仕上げに使われたものだと伝えられています。とても、歴史を感じられる神社でした。

                   

〇「安養寺」は、観光寺院ではありませんが、鎌倉時代の名仏師・快慶作の「阿弥陀如来立像(重文)」がいらっしゃいます。残念ながら、事前に予約してなかったのので拝顔できませんでした。

       

〇「笹鉾山古墳」(1号墳)は、田原本町八尾字山本に所在する東向きの前方後円墳です。全長88メートルの2重周濠をもつ6世紀前半の古墳です。墳頂には稲荷神社が祀られ、前方部に向かって参道が伸びています。墳丘には、埴輪が樹立されていたようです。真横に畑や民家があり墳頂には稲荷神社があって、古墳とはわからないような状態でした。

        

 〇6月の第1日曜日、今里の杵築神社と鍵の八坂神社で「蛇巻き」の行事が行われます。「蛇巻き」は、その構成員が男子であり、旧暦の5月5日に行われる端午の節句にちなんだ行事です。また、やがてくる田植え時に雨が降るようにという祈りを含んでいるようです。「はったはん」という場所の大樹の根元に頭がおかれ、胴体を上にして樹に吊るされます。この蛇は、下り龍・降り龍だそうです。八坂神社の近くの鍵で、昨年度の「蛇巻き」を見ることができました。

         

〇「千万院」は、「聖徳太子」が615年に法起寺を田原本町に開創し、「秦河勝」に与え秦氏の氏寺としたと伝えられています。法起寺は後に法貴寺となり、大寺として栄えたといわれています。その法貴寺の数ある塔頭の一つが千万院であり、江戸時代には千万院と本坊のみが残りますが衰退を経ています。明治時代に入り、千万院のみが残り、法貴寺の法灯を細々と継いでいます。とても小さな、お堂でしたが、「聖徳太子」が開創したと思うと感慨深いものがありました。

また、同じ場所にある「池神社」は、初瀬川西岸にある式内の古社で、祭神は天万栲幡千幡比売命と菅原道真。 秋の例祭には各垣内から繰り出す5台の山車がみごとだそうです。

                

〇「唐古・鍵遺跡史跡公園」は、今から約2,000年前の弥生時代に栄えた、幾重もの環濠に囲まれた集落の遺跡です。その規模は約42万平方メートル(甲子園10個分)という広さで、日本最大級のムラが営まれていました。大きな建物があったことを示す遺構や、日本各地から運び込まれた遺物なども見つかっており、この集落は当時の最先端の技術を持ち、近畿地方のリーダーのような役割をしていたのではないかと考えられています。

ここでは、以前から「復元楼閣」などが建てられていましたが、さらに整備が進められ弥生時代の風景が再現されました。また、敷地内にある「唐古・鍵遺跡史跡公園遺構展示情報館」では、住居跡等を見ることができます。

約2,000年前に、この場所で我々の祖先が生活していたのですね~・・・

二日間にわたって、地図を見ながらの田原本町の歴史散策は、とても興味深く歩くことができました!

                                                           

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