最近気になることの一つに、漫画やゲーム、テレビ番組にバトルものが多くを占めていることです。しかも戦国時代など特殊な状況に置かれた場面ではなく、日常生活に近いところで闘いを繰り広げるストーリーが多くなっているように思います。
その主人公たちは言います。自分の大切な人を守るために戦う。愛のために戦う、正義のために立ち上がるのだと。本当にそうでしょうか? 敵と戦うことは果たして正義なのでしょうか?
敵、憎む、呪う、辱める。これらはすべて対立関係の中から出てきます。対立すると言うことは、相手から見たら自分たちも同じ敵対関係にある者の一人なのです。敵の側から見れば自分も憎き敵なのだという事実に気付くならば、戦って勝利した結果、どうなるでしょうか。自分が勝つと相手は負ける。相手はまた戦いを仕掛けてくる。こうして戦いの連鎖がいつまでも続くのです。この果てしない戦いの連鎖が、果たして正義なのでしょうか。戦いは一時的な自己満足の正義であって、何も解決しないのです。
イエス様の正義は敵をも愛することです。決して戦うことではありません。愛はすべてを完全に結ぶ帯だとも言われます。考え方や立場の違う者同士が互いに理解し合い、協力し合うために必要なものが愛です。そして敵を愛し迫害する者のために祈る姿は、すべてイエス様の十字架での出来事とぴったり重なります。イエス様はまさに正義のお手本を示されたのです。
その主人公たちは言います。自分の大切な人を守るために戦う。愛のために戦う、正義のために立ち上がるのだと。本当にそうでしょうか? 敵と戦うことは果たして正義なのでしょうか?
敵、憎む、呪う、辱める。これらはすべて対立関係の中から出てきます。対立すると言うことは、相手から見たら自分たちも同じ敵対関係にある者の一人なのです。敵の側から見れば自分も憎き敵なのだという事実に気付くならば、戦って勝利した結果、どうなるでしょうか。自分が勝つと相手は負ける。相手はまた戦いを仕掛けてくる。こうして戦いの連鎖がいつまでも続くのです。この果てしない戦いの連鎖が、果たして正義なのでしょうか。戦いは一時的な自己満足の正義であって、何も解決しないのです。
イエス様の正義は敵をも愛することです。決して戦うことではありません。愛はすべてを完全に結ぶ帯だとも言われます。考え方や立場の違う者同士が互いに理解し合い、協力し合うために必要なものが愛です。そして敵を愛し迫害する者のために祈る姿は、すべてイエス様の十字架での出来事とぴったり重なります。イエス様はまさに正義のお手本を示されたのです。