「雄々しくあれ、強くあれ。」という聖歌があります。このあとの歌詞が「少年たちよ」と続くことから、教会学校でもよく歌われる聖歌です。この聖歌は明らかに今日の聖書の箇所であるヨシュア記1章をモチーフにしていますが、この御言葉を語られたヨシュアは少年ではなく、モーセに代わってイスラエルを導くリーダーとなっていました。ですからこの聖歌は決して子どもたち向けの賛美ではなく、大人を含む全てのクリスチャンに向けられた神様からのメッセージが込められています。
神様がヨシュアに語りかけた言葉は「強く、また雄々しくあれ。」です。しかも「わたしはあなたに命じたではないか」と、単なるお奨めの言葉ではなく「命令」の言葉です。クリスチャンは強く、また勇敢であるべきです。なぜでしょうか? それは神様の御心をこの世界に成し遂げるために選ばれた存在だからです。その進む道は険しく、いくつもの障害が立ちはだかるでしょう。それらを乗り越えるために、全知全能の神様が共にいるのだからと約束してくださっているのが今日の聖書の箇所です。
私が最近感じている危惧は、クリスチャンは守られるべき存在だという風潮があることです。もちろんそれは真実です。しかし、神様の庇護の中にある存在として、余りにも受け身の体勢になりすぎてはいないでしょうか? 神様はたしかに私たちを守って下さいます。ですが、神様は決して私たちを甘やかすために守るとおっしゃっているのではありません。神様の守りは、私たちが現実逃避するためでもなく、神様の御手の中でぬくぬくと安穏な日々を過ごすためにあるのでもなく、この世の誘惑や罪に勝利して神様の祝福を勝ち取るためにあるのです。
私はクリスチャンの皆さんにぜひ言いたい!「強く、また雄々しくあれ」と。世の中は厳しいです。特に異教の国、日本の社会でクリスチャンとして生きて行くのはそう簡単なことではありません。だからといって、神様の守りという殻の中に閉じこもらないでください。現実に立ち向かうために、強く、雄々しくありましょう。頼みの綱は自分ではありません。全知全能の神様が共にいてくださるという約束を心の底から信じる信仰です。この御言葉を堅く信じる者に、神様は必ず目の前の現実を乗り越えさせてくださり、まだ見ぬ約束の地、本当の祝福の中に導き入れてくださいます。
神様がヨシュアに語りかけた言葉は「強く、また雄々しくあれ。」です。しかも「わたしはあなたに命じたではないか」と、単なるお奨めの言葉ではなく「命令」の言葉です。クリスチャンは強く、また勇敢であるべきです。なぜでしょうか? それは神様の御心をこの世界に成し遂げるために選ばれた存在だからです。その進む道は険しく、いくつもの障害が立ちはだかるでしょう。それらを乗り越えるために、全知全能の神様が共にいるのだからと約束してくださっているのが今日の聖書の箇所です。
私が最近感じている危惧は、クリスチャンは守られるべき存在だという風潮があることです。もちろんそれは真実です。しかし、神様の庇護の中にある存在として、余りにも受け身の体勢になりすぎてはいないでしょうか? 神様はたしかに私たちを守って下さいます。ですが、神様は決して私たちを甘やかすために守るとおっしゃっているのではありません。神様の守りは、私たちが現実逃避するためでもなく、神様の御手の中でぬくぬくと安穏な日々を過ごすためにあるのでもなく、この世の誘惑や罪に勝利して神様の祝福を勝ち取るためにあるのです。
私はクリスチャンの皆さんにぜひ言いたい!「強く、また雄々しくあれ」と。世の中は厳しいです。特に異教の国、日本の社会でクリスチャンとして生きて行くのはそう簡単なことではありません。だからといって、神様の守りという殻の中に閉じこもらないでください。現実に立ち向かうために、強く、雄々しくありましょう。頼みの綱は自分ではありません。全知全能の神様が共にいてくださるという約束を心の底から信じる信仰です。この御言葉を堅く信じる者に、神様は必ず目の前の現実を乗り越えさせてくださり、まだ見ぬ約束の地、本当の祝福の中に導き入れてくださいます。