2011年3月11日、午後2時46分―東日本大震災のあの日から、3年が経った。
今もありありと思い出すあの時の凄まじいほどの揺れ。隣にいた女性の悲鳴。奥の部屋で本棚が倒れた音。倒れた本棚から立ち上った沢山の埃。あの瞬間を、耳が、目が、鼻が、身体が覚えている。
帰宅出来なかった夫と息子の帰りを待ちながら、殆ど眠れなかった。
帰宅しても怖くてガスは使えなかったし、入浴することすら出来なかった。
停電にならなかったので、テレビの報道に釘付けになりながら、毛布にくるまって明るくなるまで一人で震えていた。
あれから3年が経った。
あの日のこと、そしてそれからのことを決して忘れまじ、との思いで、震災で甚大な被害を受けた岩手県釜石市の遺体安置所を取材した石井光太さんのルポルタージュ「遺体 震災と津波の果てに」(新潮文庫)を読んだ。
裏表紙には「あの日、3月11日。三陸の港町釜石は海の底に沈んだ。安置所に運び込まれる多くの遺体。遺された者たちは懸命に身元確認作業にのぞむ。幼い我が子が眼前で津波にのまれた母親。冷たくなった友人…。悲しみの底に引きずり込まれそうになりながらも、犠牲者を家族のもとへ帰したい一心で現実を直視し、死者の尊厳を守り抜く。知られざる震災の真実を描いた渾身のルポルタージュ。」とある。
これは西田敏行さん主演で昨年公開された映画「遺体 明日への十日間」の原作本だという。映画は見る機会がなく終わってしまったけれど、封切りになった時もとても気になっていた。
一言で言うなら、あまりに惨い。読み進めながら息苦しくなり、何度も繰る手を止め、閉じそうになった。
震災直後の混乱の中、次々と運ばれてくる多くの遺体に戸惑いながらも、自らもまた被災者である医師や市民たちが、犠牲者を一刻も早く家族と再会させてあげたいという思いから、遺体の搬送や検視、DNA採取や身元確認などのつらい作業にあたる姿が描かれる。
遺体安置所の管理人・千葉さん、遺体搬送班・松岡さん、検死担当医師・小泉さん、歯形確認担当歯科医・鈴木さん、遺体捜索担当自衛隊・橋口さんなど十数名の人たちが、いかにして遺体を見つけ、捜索し、どのように遺体安置所で仕事をしたのかが、群像劇のように描かれている。
著者・石井さんは、冷徹なまでにこの光景を淡々と描写し続ける。遺体の冷たさ、遺体に抱きついて泣く女性の叫びをそのまま書く。そこに描かれるのは紛れもなく冷たい死の世界だ。
けれど、読み進めていくと、そうした不条理な死をなんとかして血の通ったものにしようと、懸命に努力する人々の姿が描かれているのに気づかされる。
遺体搬送班の松岡さんは市の生涯学習スポーツ課職員だった。当然、遺体に触れたことなど、ない。が、黙々と何百という遺体を安置所まで運び続ける。同僚たちが精神を病んで脱落していく中、彼だけはやり通す。
医師の小泉さんや歯科医の鈴木さんが遺体を調べていると、自分の患者や友人たちが変わり果てた遺体として運ばれてくる。衝撃に打ちひしがれながらも、「なんとか身元を確認してあげたい」という思いで、口の中から砂や体液を掻き出しながら、死因や歯形を調べ続ける。
そして遺体安置所の管理人・千葉さん。葬儀社を退職し、民生委員を務めていた方だが、自ら遺体安置所の管理人になることを名乗り出る。彼は葬儀社時代の体験から、遺体がモノとして扱われることを懸念し、必死に遺体に話しかける。生まれて間もない赤ちゃんに語りかけ、腐敗が進み、顔が土気色に変色していく年配の女性がいれば、死化粧をし、語りかける。
そうした過程で、遺体は人間としての尊厳を取り戻し、泣き崩れていた遺族たちに救われた表情が戻ってくる。そのひとつひとつの積み重ねが、被災者たちにとってどれだけ重要だったことか、胸に迫る。
犠牲となった方々、いまだ行方不明の方々、その無念を思うと、こうして治療を続けながら日々命を繋げられていることが本当にもったいなくも申し訳ない思いで一杯になる。
今も仮設住宅にお住まいの方々、避難先で暮しておられる方々は、寒さや疲労で体調を崩してはいないだろうか。歳を重ねることで、まだ新しい一歩が踏み出せないでおられる方は多いのではないか。消えることのない悲しみに寄り添ってくれる人は傍にいてくれるのだろうか。
今年の3月も寒い。あの日を思い出して、今も辛く眠れぬ夜を送っていないだろうか。
去年も書いたけれど、今、私に出来ることは決して忘れないこと。自分にはもう関係ないこととは思わないこと。今も復興に向けて辛い毎日を送っておられる方々に思いを馳せること、である。
2時46分、職場で1分間の黙祷を捧げながら、その思いを新たにした。
今もありありと思い出すあの時の凄まじいほどの揺れ。隣にいた女性の悲鳴。奥の部屋で本棚が倒れた音。倒れた本棚から立ち上った沢山の埃。あの瞬間を、耳が、目が、鼻が、身体が覚えている。
帰宅出来なかった夫と息子の帰りを待ちながら、殆ど眠れなかった。
帰宅しても怖くてガスは使えなかったし、入浴することすら出来なかった。
停電にならなかったので、テレビの報道に釘付けになりながら、毛布にくるまって明るくなるまで一人で震えていた。
あれから3年が経った。
あの日のこと、そしてそれからのことを決して忘れまじ、との思いで、震災で甚大な被害を受けた岩手県釜石市の遺体安置所を取材した石井光太さんのルポルタージュ「遺体 震災と津波の果てに」(新潮文庫)を読んだ。
裏表紙には「あの日、3月11日。三陸の港町釜石は海の底に沈んだ。安置所に運び込まれる多くの遺体。遺された者たちは懸命に身元確認作業にのぞむ。幼い我が子が眼前で津波にのまれた母親。冷たくなった友人…。悲しみの底に引きずり込まれそうになりながらも、犠牲者を家族のもとへ帰したい一心で現実を直視し、死者の尊厳を守り抜く。知られざる震災の真実を描いた渾身のルポルタージュ。」とある。
これは西田敏行さん主演で昨年公開された映画「遺体 明日への十日間」の原作本だという。映画は見る機会がなく終わってしまったけれど、封切りになった時もとても気になっていた。
一言で言うなら、あまりに惨い。読み進めながら息苦しくなり、何度も繰る手を止め、閉じそうになった。
震災直後の混乱の中、次々と運ばれてくる多くの遺体に戸惑いながらも、自らもまた被災者である医師や市民たちが、犠牲者を一刻も早く家族と再会させてあげたいという思いから、遺体の搬送や検視、DNA採取や身元確認などのつらい作業にあたる姿が描かれる。
遺体安置所の管理人・千葉さん、遺体搬送班・松岡さん、検死担当医師・小泉さん、歯形確認担当歯科医・鈴木さん、遺体捜索担当自衛隊・橋口さんなど十数名の人たちが、いかにして遺体を見つけ、捜索し、どのように遺体安置所で仕事をしたのかが、群像劇のように描かれている。
著者・石井さんは、冷徹なまでにこの光景を淡々と描写し続ける。遺体の冷たさ、遺体に抱きついて泣く女性の叫びをそのまま書く。そこに描かれるのは紛れもなく冷たい死の世界だ。
けれど、読み進めていくと、そうした不条理な死をなんとかして血の通ったものにしようと、懸命に努力する人々の姿が描かれているのに気づかされる。
遺体搬送班の松岡さんは市の生涯学習スポーツ課職員だった。当然、遺体に触れたことなど、ない。が、黙々と何百という遺体を安置所まで運び続ける。同僚たちが精神を病んで脱落していく中、彼だけはやり通す。
医師の小泉さんや歯科医の鈴木さんが遺体を調べていると、自分の患者や友人たちが変わり果てた遺体として運ばれてくる。衝撃に打ちひしがれながらも、「なんとか身元を確認してあげたい」という思いで、口の中から砂や体液を掻き出しながら、死因や歯形を調べ続ける。
そして遺体安置所の管理人・千葉さん。葬儀社を退職し、民生委員を務めていた方だが、自ら遺体安置所の管理人になることを名乗り出る。彼は葬儀社時代の体験から、遺体がモノとして扱われることを懸念し、必死に遺体に話しかける。生まれて間もない赤ちゃんに語りかけ、腐敗が進み、顔が土気色に変色していく年配の女性がいれば、死化粧をし、語りかける。
そうした過程で、遺体は人間としての尊厳を取り戻し、泣き崩れていた遺族たちに救われた表情が戻ってくる。そのひとつひとつの積み重ねが、被災者たちにとってどれだけ重要だったことか、胸に迫る。
犠牲となった方々、いまだ行方不明の方々、その無念を思うと、こうして治療を続けながら日々命を繋げられていることが本当にもったいなくも申し訳ない思いで一杯になる。
今も仮設住宅にお住まいの方々、避難先で暮しておられる方々は、寒さや疲労で体調を崩してはいないだろうか。歳を重ねることで、まだ新しい一歩が踏み出せないでおられる方は多いのではないか。消えることのない悲しみに寄り添ってくれる人は傍にいてくれるのだろうか。
今年の3月も寒い。あの日を思い出して、今も辛く眠れぬ夜を送っていないだろうか。
去年も書いたけれど、今、私に出来ることは決して忘れないこと。自分にはもう関係ないこととは思わないこと。今も復興に向けて辛い毎日を送っておられる方々に思いを馳せること、である。
2時46分、職場で1分間の黙祷を捧げながら、その思いを新たにした。
そうだったのですか・・・。みかささんは原発に近いところにお住まいだったのですね。
お友達もたくさん亡くされたとのこと・・・本当に辛い思いをされたのですね。
大変なことでした。
そう、地震、津波だけでなく原発事故・・・。どれもこれも未曾有の大震災でした。
今、「前へ!-東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録」という本を読んでいます。原発を冷やせ、道路をヒラケ!命を救え!という自衛隊、警察、国交省やDMATの方たちのノンフィクションです。当時のことが蘇り、胸が震えます。
本当に日常生活を送ることの出来ることの有難さ、身に沁みます。日々を感謝して生きなければ、と改めて思います。
お辛いご記憶を思い出されながらの中、コメントをどうもありがとうございました。
震災当時、津波で家へ帰ることができず、子どもたちとも会えたのは次の日のお昼でした。
子どもたちは、学校へ避難して無事でしたが、私の友人や子どもの学校のお友達がたくさん亡くなりました。
地獄絵図のような光景。遺体安置所の遺体の匂い。福島原発事故の影響で物流が滞り、遺体安置所のご遺体へ手向ける花さえもなかった時がありました。
それは、食べ物がてに入らなかったことよりもつらいことでした。
あれから、3年経ちました。
平穏な日々を送ることのできる幸せをかみしめています。