いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

新しい街でもぶどう記録;第464週

2023年10月07日 18時00分00秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第464週

■ 今週の武相境斜面


鶴川の鶴見川

■ 今週の草木花実

■ 今週の1番閲覧が多かったページ

なぜ彼岸花は毎年同じ場所に咲くのか?、あるいは、非散種の例、そして、球根の意義、はたまた、その栽培法

■ 今週の見切り品

ビーツってどんな野菜?基本の食べ方&人気レシピ18選も

■ 今週の運賃違い

神奈川県大和市のコミュニティバスには種類があり、運賃が違う。「のろっと」、「やまとんGo」。

web site: 大和市コミュニティバス

■ 今週の初物

■ 今週のまぬけ

カナダ議会が第二次世界大戦でソ連と戦った元ウクライナ兵士にスタンディング・オベーション。彼はナチスのSSの隊員としてソ連と戦ったのです。 普通、すぐ気づくだろう、ソ連と戦った兵士って。
Google: 元ナチス隊員、カナダ議会で喝采浴びる-ゼレンスキー氏の演説時に

■ 今週の半額、あるいは、非道産品

 

先週、今週の半額、あるいは、道産品としてよつ葉牛乳を紹介した。今週も!2週連続!と思ったが、道産品じゃなかった。

愛媛県松山市 ルナ物産株式会社(wiki

■ 今週の危険予知、バスにて

■ 今週の「もちっと、ふわっと」


むさしの森珈琲、もちふわキャラメルシフォン

■ 今週の聖地巡礼:「穴掘り作業員」のために

 海軍工廠の生活は呑気だった。私は図書館係と穴掘り作業に従事していた。


神奈川県座間市、芹沢公園、高座海軍工廠 中丸地下工場跡

近代の戦争、特に先の大戦は、国家総動員戦であったから、多くの人が動員され各自役割を担った。国家のためなので、各役割の軽重、貴賤はあまりいうべきことでなはないだろう。でも、東大法学部の学生の中では、学徒動員で特攻隊員になった人もいたし()、穴掘り作業員になった人もいた。戦死した人もいるだろうし、生き残った人もいた。上の例で紹介されている東大生で特攻要員となった小田滋、歌田勝弘などは昭和22年卒業である。同じく生き残った三島由紀夫=平岡公威と同じ卒業年だ。みんなほぼ同い年。三島由紀夫は兵隊になれず、穴掘り作業をしていた。さらに、高座海軍工廠で8,000人の働いていたという台湾少年工と一緒だったのだ。高座海軍工廠では、日本海軍が米軍機迎撃のために厚木基地などに配備した局地戦闘機「雷電」(wiki)をつくっていた。近くの「厚木」航空基地が出撃場所だった。

 
左上の灰色部分が米軍座間キャンプ、右下の灰色部分が米軍「厚木」基地。両基地とも自衛隊も使用。

海軍工廠の生活は呑気だった。私は図書館係と穴掘り作業に従事していた。部品工場を疎開するための大きな横穴を、台湾人の少年工たちと一緒に掘るのであった。この十二三歳の小悪魔どもは私にとってこの上ない友だった。かれらは私に台湾語を教え、私はかれらにお伽噺をきかせてやった。かれらは台湾の神が自分たちの生命を空襲から守り、いつかは無事に故国へえ送りかえしてくれるものと確信していた。かれらの食慾は不倫の域に達していた。すばしこい一人が厨当番の目をかすめてさらって来た米と野菜は、たっぷり注がれた機械油でいためられて炒飯になった。歯車の味がしそうなこの御馳走を私は辞退した。
三島由紀夫、『仮面の告白』

この石碑の反対側の文言は下記;

台湾少年工顕彰碑の由来
 先の大戦中、航空機生産の労働力不足に直面した日本海軍は、その供給源を向学心に燃えていた台湾の若者に求めました。新鋭戦闘機(雷電)を生産しながら勉学に励めば、旧制工業中学の卒業資格を与え、将来は航空機技師への道を開くとの条件に、多くの台湾台湾少年が応募し、選抜試験を突破した八千四百余名が、海を渡って高座海軍工廠のあったこの地(神奈川県高座郡)にやってきました。
 戦局はすでに下り坂で、彼らが求めた勉学の機会はほとんど無く。その上新設の高座海軍工廠には十分な設備が無かったため、大半が全国各地の航空機工場に派遣され、慣れない寒さやひもじさに耐えながら懸命に働き、非常に高い評価を得ました。しかし米軍機の空襲などで六十名に上る尊い犠牲もありました。
 一九四五年八月一五日の敗戦により、志半ばで帰国した彼らを待っていたのは、四十年の長きにわたる戒厳令下の厳しい生活でしたが、それにも耐え抜き、戒厳令が解除されると直ちに同窓組織・台湾高座会を発足させ、李雪峰氏を会長にして日本との密度の高い交流を重ねてきました。
 二〇一八年は、台湾からの第一陣が日本本土に上陸した日から数えて七五年になります。私たちはこの機に台湾高座会留日七五周年歓迎大会実行委員会を組織し、台湾高座会の戦時下の貢献と戦後における台湾最大の親日団体としての活動に感謝の意を表すため、台湾少年工顕彰碑建立を計画しました。
 なお、台湾高座会の皆さんが今もこの高座の地を「第二の故郷」と呼ぶのは、工廠のあった高座の地の多くの農家のお母さんたちのやさしさに源があるようです。此の顕彰碑は当時の農家のお母さんたちへの感謝の碑でもあります。
 二〇一八年一〇月二〇日(平成三十年十月二十日)
 台湾高座会留日七五周年歓迎大会会長 衆議院議員 甘利明

三島由紀夫が高座での生活の一端は彼の『私の遍歴時代』にある;

 しかし人間の記憶などはあてにならぬもので昨年ある文学全集の月報に清水文雄先生が発表された当時の私の葉書があって、それによると、昭和二十年五月、神奈川県高座郡の、海軍高座工廠にいた私は、机辺に、和泉式部日記、上田秋成全集、古事記、日本歌謡集成、室町時代小説集、鏡花を五、六冊、並べたのはよいとして、イエーツの一幕物を歌曲の候文で訳している、などと先生に報告している。
(中略)
 この一例でもわかるように、イエーツと戦争末期の時代とは、簡単には結びつかない。その結びつかないものを、努力して結びつけたというのではなく、私は当時の現実を捨象することに一生けんめいで、もはや文学的交際も身辺に絶え、できるだけ小さな、孤独な美的趣味に熱中していたものと思われる。いずれは死ぬと思いながら、命は惜しく、警報が鳴るたびにそのまま寝てすごす豪胆な友だちもいるのに、いつも書きかけの原稿を抱えて、じめじめした防空ごうの中へ逃げ込んだ。その穴から首をもたげてながめる、遠い大都市の空襲は美しかった。炎はさまざまな色に照り映え、高座郡の夜の平野の彼方、それはぜいたくな死と破壊の大宴会の、遠い篝のあかりを望み見るかのようであった。 
 こういう日々に、私が幸福だったことは多分確かである。就職の心配もなければ、試験の心配さえなく、わずかながら食物も与えられ、未来に関して自分の責任の及ぶ範囲が皆無であるから、生活的に幸福であったことはもちろん、文学的にも幸福であった。批評家もいなければ競争者もいない、自分一人だけの文学的快楽。・・・こんな状態をいまになって幸福だというのは、過去の美化のそしりを免れないが、それでもでいるだけ正確に思い出してもみても、あれだけ私が自分というものを負担に感じなかった時期は他にない。私はいわば無重力状態にあり、私の教養は古本屋の教養であり、私の住んでいたのは、小さな堅固な城であった。ーそして不幸は、終戦と共に、突然私を襲ってきた。
三島由紀夫、『私の遍歴時代』

 
昭和19年9月、恩賜の銀時計と三島(高座勤務の1年前)

別途、高座海軍工廠での生活を書いている;

私は戦争末期には、ほとんど 仮病を使って過ごした。私自身も、心臓だかどこかが悪いものだと思い込んでいたのである。

 そこで戦争末期には、とうとう労働を免れるところまで行った。厚木付近の大学の勤労動員 先でも、毎日 穴掘りをやらされていたのが、東京の主治医の診断書を持って行って、うまうま と図書館勤務へ変えてもらった。 (すべてこういうことを、私は決して自慢でいっているのではない)

なお、敗戦の日、あの玉音放送の日は都内にいた。都内といっても疎開先だ;

 7月末の話。(中略)私は 原因不明の発熱と頭痛で床についた。 だんだんひどくなるので、 腸チフスと自己診断をして、家へかえった。 梅肉エキスの卓効を信じていたから、 あの 酸っぱいものを大匙1杯づつ、 1時間おきになめた。

 熱がようやく下がって、豪徳寺の親類の家で予後養っているとき、終戦の大詔が下ったのである。 父はその場のいきおいで、
「これからは芸術家の世の中だから、やっぱり小説家になったらいい」
 とひどく 理解のあることを言ったが、数年たつとまたがんこ親父に逆戻りして、私は官吏にさせられた。
 終戦のとき、妹は友たちと宮城前へ 泣きに行ったそうだが、 涙は当時の私の心境と遠かった、新しい、未知の、感覚世界の冒険を思って、 私の心はあせっていた。
1955年 「八月十五日前後」

▼ 「いっそ小田急で逃げましょか」

高座海軍工廠から小田急座間駅へは歩いていける。豪徳寺までは小田急で1本だ。なお、西条八十の詩での逃げる方向は東京から箱根方面のはずだが、三島の場合は逆に、東京に逃げたのだ。

■ 今週借りた本

山田直『ヴァレリー』、松浦芳子『今よみがえる三島由紀夫』、村松剛『歴史とエロス』、入江隆則『文学の沙漠のなかで』、松本徹『三島由紀夫の時代』。村松剛ー三島由紀夫関連の本。村松剛ー三島由紀夫の共通テーマはニヒリズム。ふたりともニヒリズムの中でどうするかということ。村松は自分のニヒリズムに自覚的だった。だから、ユダや神の沈黙を論じた。でも、終生、耶蘇にはならなかった村松はどうやって自分の魂をうまく「飼いならした」のか?村松、三島と、一時期、一緒に活動していた福田信之は文鮮明に帰依した。心に隙間があったからである。あと、ユダやイエスが神からの応答をもらえなかったとして、三島の最期の「待った」そして自決した、というのは「神からの応答をもらえなかった」と同等なのか?なんなのか?

心の隙間問題。村松剛ー三島由紀夫の共通テーマはニヒリズムとなった背景には、敗戦により心の隙間が生じたことだ。この問題を村松はヨブ記の検討で、暗に、考えている。村松剛「ヨブ記と現代」(『歴史とエロス』)にある;

『ヨブ記』は紀元前五世紀ごろの作といわれる。 前五世紀 といえば、 ユダヤ人の王国が新バビロニアにほろぼされ、 市民はバビロンにつれてゆかれた苦難の時期の、 しばらくあとにあたる。 バビロニアは間もなく ほろび、 彼らは故郷に帰ることを許されたが、 久しぶりに見る故国で彼らを待っていたのは瓦礫の山と貧困と上だった。古代世界の常識では、一つの国が戦争に負けてほろびるということは、その国の神の敗北を意味したから、宗教を中心に成立していたこの民族の苦悩は、当時深刻だったろう。

これは古代ユダヤ人の国の話を出汁にして、敗戦時のほろびた大日本帝国のことを念頭に語っているにちがいない。

▼ ニヒリズム

あと、村松剛ー三島由紀夫の御両人が、おいらからみて、ニヒリストだなと思うのは、なんでも学習してそれなりに理解して利用するところ。なんでもいいんかい?と思ってしまう。なにせ、三島は晩年にはディズニーランド好きである。それで、天皇陛下万歳で切腹、何がなんだかわからない。

さらに、ふたりとも60年安保騒動が終わ頃までには、保守、ましては右派とは思われていなかった。これはふたりの階級的処世術と、おいらは、睨んでいる。すなわち、山の手のインテリというのは財産的基盤は強くない(このことは村松は自覚していて、述懐している)。特に、この二人はそうだ。一族は東大出の「エリート」といっても、所詮、高級賃金労働者である。原理的には無産者である。その子弟たちは、学校に落ちたり、職につけなかったら、ただの賃金労働者だ。60年安保騒動が終わるまでの時期は左派、戦後民主主義派が主流であり、その主流派からはじかれることは、社会的没落を意味していた。だって、このふたりの家族、江戸時代から江戸・東京でやってきたということは、徳川家から明治クーデター政府に鞍替えしたから、存続できたのだ(愚記事:"勝者に取り入り生活する敗者")。なにより、村松剛ー三島由紀夫の御両人は敗戦後の占領下、それなりに進駐軍に順応して生きている(三島は占領下の大蔵官僚、 ”コラボで金持ち東大院生:村松剛)。つまり、順応主義的、機会的、ニヒリストなのだ。何かを本気で信じると、場合によっては「殉死」しなければいけないことにもなる。こういう点から三島の最期を考えると、順応主義的、機会的、ニヒリストではなかったと証明するために自殺したのだ。「鼠の自殺」だ。入江隆則『文学の沙漠のなかで』の三島論を読んで、考えた。

▼ 井上隆史「村松剛と三島由紀夫」

井上隆史「村松剛と三島由紀夫」からのメモ:

 村松というと、一般に戦後民主主義を否定する保守系評論家というイメージが強く、確かにそれはその通りなのだが、(中略)村松の一貫した姿勢が窺われるように思う。それは、卑俗な現実を越えた価値の追求と、残酷な運命を見据えつつこれを超克する強靭さへの絶えざる憧憬と要約することが出来よう。

 結局村松には、死の光の前に生の一切の営みが無意味になるという感覚や、世俗的な現在社会において魂の重要性が見失われるという意味でのニヒリズムには理解があったが、三島を捉えて離さなかった問題、即ち文学創作の営み自体が生の否定を招いてしまうというニヒリズム、ついには生の基盤の崩壊に至る深刻なニヒリズム、死以外に超克の可能性が閉ざされたニヒリズムというものへの理解は乏しかった。

▼ 村松剛『歴史とエロス』

この本は充実している。内容、緻密。だからであろうか、古本での根が張っている。

さて、メモ。この本の中で「占領のもたらしたもの」という文章がある。進駐軍による占領で日本は解放された!という風潮への批判である。のちの江藤淳による占領批判、戦後批判を先駆けるものである。ただし、松村も言及しているように河上徹太郎による「配給された自由」という批判が第一だ。ところで、村松は占領について「解放」でもあると認識している。「アメリカの占領軍が、一面で解放軍としての役割を演じたことは、明らかな事実である。農地解放にせよ、今日われわれが享受している言論の自由にせよ、アメリカ軍による占領なしには考えられなかったことなのだ。」と書いている。そして、「アメリカの占領軍は、解放者であると同時にー当然のことだがー征服者だった。

このへんの事情は、ヨオロッパを席捲したナポレオンの軍隊の場合に、いくらか似ているかもしれない。

 この「占領のもたらしたもの」とは別の項の「ヨブ記と現代」では

 近代では神意を、世俗化した。その転換点に立つ巨大な存在が、ヘーゲルだった。彼はイエナの町をとおるナポレオンの姿を見て、「世界精神」の化身である、と思った。歴史の背後に「絶対理性」をおき、自分を「絶対者の祭司」と呼んだ彼は、カール・レーヴィットの表現を借りれば、一方の手で神の摂理をつかんでいた。

 このヘーゲルがナポレオンを見て世界精神が行くとつぶやいたという話は有名。おいらは高校生の頃、敗戦直後、マッカーサー=ナポレオン=世界精神と考えた「左翼、民主制」知識人はいなかったのか?と思った。マッカーサー⇔ナポレオンのアナロジーを少しでも考えた例を見たこともなかった。今回、村松剛が近い発想とわかった。おいらは、高校生のとき、この村松の文章に出会うべきだった。