AKB48の旅

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強制と意思

2013年03月30日 | AKB
「立候補制」と言われてみて初めて、今更ながらに気づかされた、これまでの選抜総選挙は、事実上「強制」されていたという事実。そんなの当たり前と言われれば、自らのアホさ加減を白状して、土下座するしかない。そうか-、強制だったのか・・・。

確かに、秋元康氏が独裁者の如くに選抜メンバーを決めるのが気にくわない、そこから始まった話という設定なわけだし、「独裁者の如くに決定」というのを、メンバー側から見れば、一方的に強制されて、選抜メンバーに指名されることになるわけで、うーん確かに強制だわ。その主体が、秋元氏からファン投票の結果に変わっただけなんだから、メンバーから見た在り方は、何も変わってない。

となると、今回の「立候補制」というのは、思いの外、根源的な変革になるのかも知れない。立候補なんだから、それは強制ではなくて、自らの意思ということになる。もちろん、親族や知人、事務所関係等、様々な人間関係、利害関係も絡んでくるかもしれない。そういう意味では、国政選挙なんかとも類似してくる面もあるかも知れないわけで、これだけでも相当に複雑なものになる。

その一方で、この選抜総選挙が、間違いなくAKBGにとっての最大の年中行事なわけで、そこに参加しないということは、AKB共同体の構成員としてどうよ、なことに成りかねない。例によって誇張表現を用いれば、これって、村落共同体にとっての村八分要件ではないか。そうでなくても、空気が支配する日本という国にあって、そういう類いの「空気」が醸成されがちだろう。

「自由意思」など存在しないとか、プロテスタント的な議論は置いとくとして、それでも自らの意思を「空気」を読んでから決める国民性なんだし、やはりそこには、「自由意思」なんてないことになる。そんなキリスト教と日本教の奇妙な類似関係も置いとくとして、それでも日本教徒としては、ひたすら「空気」を読むしかないのかな。