AKB48の旅

AKB48の旅

KY

2013年12月31日 | AKB
まず最初に言明しとくけど、「KY」という言葉はあんまり好きではない。その上で、その好きくない言葉でもって、取り敢えず今年の「レコ大」を評したいと思う。

2013年あるいは平成25年という年は、いろんな意味で日本そして世界の転換点、それももしかして大転換点だった年として、後年になって振り返られることになるんじゃないか。これは予想とかではなくて、事実を積み上げるだけで、気がつけることのように思う。

話を日本に限っても、経済では、アベノミクスという名のリフレ政策が、紆余曲折を経ながらも、ついに実行された。政治では、特亜との関係性で代表されるように、敗戦という瀕死の重傷からようやくにして快方へと向かう、そんなベクトルが明確になった。文化では、サブカルという解釈に矮小化されてきた「日本文化」が、実は平和な世界におけるメインストリームであることに、気がつかれ始めた。

そしてこれはあくまでも偶然だけど、伊勢神宮と出雲大社の遷宮が同時に行われたことも、付け加えておこう。

そんな年に、しばらく途絶えていた「流行歌」が復活した。国内的には「女々しくて」が、世界向けには「にんじゃりばんばん」が、人口に膾炙するという表現を使えるくらいに流行った。そしてもちろん、それらをも上回り、今年を代表する曲となった「恋するフォーチュンクッキー」があった。

デフレの泥沼に囚われ、闇に沈んでいた日本が、いろんなしがらみを断ち切る勇気を示すことで、そこから脱出しようともがいてる、そんな始まりの年にぴったりの流行歌「恋するフォーチュンクッキー」。穏やかな前向き、控えめな幸福感、さわやかな言葉の響き。秋元氏は見事に時代を読み切った。

けれども、残念なことに「レコ大」は、「芸能界村」の空気は読んだかも知れないけど、時代の変化を読めなかった。旧弊にして老害のしがらみから、一緒になって立ち上がろうとはしなかった。とっくの昔に、自業自得によって、その「権威」は失墜していたとは言え、それでもなお老舗ゆえの格式は尊重されているかに見えた。それもここに潰えた。

この年、「レコ大」へ引導を渡したのがAKBであるということも、後に振り返ることで気づかれることになるんじゃなかろうか。

2013 真夏のドームツアー ブルーレイ「東京ドーム 4th day」

2013年12月30日 | AKB
東京ドーム1st dayは秋元才加スペシャルだったと書いたけど、そして当たり前っちゃあ当たり前なんだけど、この4th dayは板野友美スペシャルだった。・・・んだけど、うーん、どうなんだろう。ビデオ映像を多用して、衣装の早着替え時間を稼いだりしてるんだけど、あんまり成功してるとは思えなかった。

板野スペシャルなパートは、間延びしたものに感じられてしまったし、それ以外のセトリの多くは、このドームツアーを通して共通部分が多かったようで、こうしてヤフオク!ドーム2nd day、東京ドーム1st dayの順番で見てきた3番目だと、全体としても、やはり間延びして感じられてしまったことを、正直に書いておこう。

結局、一番印象的だったのは、板野さんの連続ソロでも、前田さん、篠田さんのサプライズ出演による卒業セレモニーでもなく、その後の高橋さんの総括スピーチになってしまった。これが台本でなくアドリブだとしたら、そして恐らくは実際にアドリブに近いんだろうと思うんだけど、高橋さんのスピーチ力たるや、恐るべし。

板野さんについては、あらためて何か語ろうとしても、なんか難しい感じ。論評とかではないんだけど、強いて言うなら、その内実はともかくとして、あくまでも外面的な見え方では、次第にAKBという存在様式から浮き気味になって、順当に「異化」されて行ったように見える。それは、夢のショーケースにして、夢を実現するための通過点という、AKBの建前に忠実な姿そのもののようだったと言えそう。


以下追記>通りすがりのぽんこつさんへ

「読み過ぎ」というのはその通りなんですが、日中の政治情勢を考えると、15人選抜という些細なことにも、過敏に反応したくなるものですし、それが宮澤さんへのエールであって欲しいという、願望めいた思いも込めたつもりだったりします。

過去の歴史を多少とも知ってる身としては、正直、このあたりはけっこう切実に感じられたりしてます。

ミュージックステーションスーパーライブ2013

2013年12月29日 | AKB
ミュージックステーションスーパーライブ2013のメドレーが、素晴らしかった。「さよならクロール」→「Everyday、カチューシャ」→「RIVER」→「夕日を見ているか」→「恋するフォーチュンクッキー」という選曲にして順番だったけど、それぞれのフォーメーションと新衣装の見栄えの良さ、そしてその衣装替えまで計算され尽くした演出になってて、見事としか。

結果、多幸感に満ちあふれた一大祝祭空間が、そこに繰り広げられてた、出現してた。これはもう超一流のエンターテインメントと賞賛しても、単なるファン目線の依怙贔屓とは言えないんじゃないかと思う。大箱の経験を多く積んだことで、大人数という最大の、そして無二の特徴を生かし切る、そんなレベルについに到達したと言い切れるんじゃないか。

俯瞰視点では、おそらく出演メンバー全員の統率が取れていた、意識の統一が保たれていたと感じられたし、それにも増して、フォーメーションと衣装の双方で明確に示される、「階層」もしくは「階級」の存在が強烈に印象づけられた。

各曲での選抜メンバーは、それなりに流動するんだけど、「夕日を見ているか」の選抜メンバーに選ばれることの意味は、メンバー自身がいちばん分かってることだろう。

高橋、大島、小嶋、峯岸、柏木、渡辺麻、指原の7人(敬称略)が旧来からの「神」であったのに対し、ここで新たに加わった8人のうち、横山、島崎、松井J、松井R、山本、渡辺美の6人(敬称略)は、既にしてその資格は有してた。ここでは入山さん、川栄さんの「昇格」を祝いたい。

そんな選抜メンバーには、豪華な衣装が惜しげもなく投じられ、一方で、バックダンサーには、やはりそれと分かる衣装が与えられる。この合理的な格差。そんなバックダンサーに中には、かつて1軍だった顔もちらほら加わってたけど、「腐る」様子は欠片も見せない。もちろん「本心」なんか分かるはずもないけど、たぶん間違いなく、仲谷さんの「非選抜アイドル」と同じ意識がそこにはあったはず。

カメラ割も当然、そんな選抜メンバーにのみ向けられ、そこでは個別に個々のハイコンテクストを反映した「物語」が、次々に展開されてた。中でも、「夕日を見ているか」の最後の辺りで、高橋さんと大島さんが肩を抱き合い、互いを見つめ合うシーンというのがあって、その一瞬に込められた濃縮されたAKBの8年間という時間、そして膨大な物語が、ホント、走馬燈という言葉が矮小に感じられるくらいに、ただただ感動的だった。

直後の「恋するフォーチュンクッキー」のさっしーのしゃべりが、なんとも「おばか」に感じられてしまって、けれども、そこが逆に、新たな物語の始まりにも見えたし、高橋さん、大島さんが担ってきた重く巨大な物語に対して、さっしーの軽快感、テキトー感が強く印象づけられたようにも思う(←けなしてません。念為)。

5曲のメドレーの中に、AKBという存在の内部構造と時系列を表現した上で、未来までも指し示す、しかもそれを、完璧とまで表現したいエンターテインメントに見事に昇華する。凄いものを見たと思う。


そしてもう一つ。「夕日を見ているか」が、15人選抜だったことについて。

この曲は元々10人選抜なんで、16人選抜にはこだわらなかったとも考えられるけど、この15人は、直前の「RIVER」の16人選抜から、加藤玲奈さん一人が外れたものだった。

これを、「夕日を見ているか」はAKBにとってのアンセムなので、加藤さんがそこに参加できるレベルにはなかったから、と捉えることも可能かも知れない。もしそうだとすれば、「RIVER」選抜と「夕日を見ているか」選抜は、その基準が違うことになり、それは「夕日を見ているか」が特別な曲なんだからという、循環論法で終わることになる。

けれども、ここにいないメンバーの名前を思い浮かべるなら、まったく違った構図が見えてくるかも知れない。

それはもちろん宮澤さんのことで、宮澤さんがあの場にいたら、当然のように「夕日を見ているか」選抜に加わることになるだろう。ならば、宮澤さんの居るべき席は空けておこう、帰るべき場所をそこに用意しよう、そういう運営サイドなり、メンバーの意思が、そこに表現されてるんじゃないか。

加藤さんも、自身が外される理由がそういうことであれば、「喜んで」応じるんじゃないか。そして、もしこの「ミュージックステーションスーパーライブ2013」を宮澤さんが見ることができるなら、そんな「意思」が伝わるかも知れない。あるいは内々に伝えられてるのかも知れない。

メンバーの結束の固さ、絆については、これまでも感嘆の思いを縷々綴ってきたけど、ここにもまた、その一端を見たように思う。

Real Sound「エドボルのアイドル深読みリサーチ ~AKB48激動の2013を振り返る~ 」

2013年12月28日 | AKB
http://realsound.jp/2013/12/akb482013.html
http://realsound.jp/2013/12/akb482013-1.html

今年もあと4日ということで、年末にAKBの一年を振り返るというのは悪くないし、そんな気分ぴったりな記事。この記事を書かれた「エドボル」という方は、アイドル関連の放送作家とのこと。AKBのハイコンテクストを熟知されてるようで、雑誌の記事などでよく見られる、無知故の偏見や、意図的もしくは無自覚な悪意とは無縁で、読んでて気持ちが良い。

「AKB48を追いかけると他が見られなくなる」という指摘は、なんか苦笑してしまいそうなシンクロニシティかな。前編記事の日付が12月21日になってて、私が「君の名は希望」を上げた2日後ということに。AKB界隈にのめり込んでいれば、思うことは同じと言うことか。

記述内容については、全般的には概ね同意なんだけど、強いて言えば、「お茶の間」というステレオタイプな表現というか、概念が唐突に出てくるところが気になったかも。この言葉、確かに今でも頻繁に目にするけど、どうだろう、テレビと「お茶の間」という関係性は、ほぼ団塊世代以上が纏っていたものであり、既にして幻想というか、もしかして当初から印象操作的な概念だったんじゃないか。

AKBファンの世代構成については、諸説あるけど、少なくとも団塊世代が中心ということはないだろう。テレビサイド的には、「お茶の間」概念は便利なんだろうけど、テレビを見ながら家族団欒的な絵柄は、間違いなく少数派になるはず。むしろ絶滅危惧種と言い切った方がリアルかも。

あとは、これも唐突感が半端じゃない、「松井珠理奈、島崎遥香、川栄李奈といった次のリーダー層」という記述。何の説明もなく、この3人の名前を出されると、やはり違和感を感じざる得ないんじゃなかろうか。もちろん、エドボルさんのAKB理解度の深さ故に、敢えてこの3人、そういう見方も可能だけど、どんなもんだろ。

難癖みたいだけど、そんなあたり。

NHK「ハロー・グッバイの日々~音楽プロデューサー佐久間正英の挑戦~」

2013年12月27日 | AKB
先日の「君の名は希望」エントリで、生田絵梨花さんと佐久間正英さんについて触れたばかりなんだけど、あれの背景が読み取れるような、そんな番組だったように思う。恐らくは佐久間さんの最期を看取る、そんな思いに駆られて、多くの関係者が動いてるんだろう。「君の名は希望」のコラボも、そんな一環だったんじゃないか。

佐久間さんは61歳とのことで、日本人の平均寿命からすれば、まだ若いとも言える。けれども癌という病気は、年齢と相関して誰かに割り振られてしまう。正直、今回の生田さんとのセッションで、お名前はもちろんのこと、輝かしい経歴についても初めて知ったんだけど、そんな実績のある有能な人にも、病は平等に訪れる、そんなあたりまえにして残酷な現実を、他人事のように、けれども頬をかすめる銃弾のように実感させられる。

一つひっかかりと言うとアレだけど、ミュージシャンとしての辞世の句ということになるんだろう、最期の曲"LAST DAYS"の歌詞が英語であることに、なんというか、あの年代のミュージシャン、いや、あの年代の選ばれた日本人とまで拡張しても良いかも知れない、その「心の旅路」を見る思いと言い放つのは、不遜すぎる物言いだろうか。

「君の名は希望」の映像の最後、生田さんの言葉「また いつか」が実現してた、それでもそこに希望を見出したいし、そんな生田さんを見つめる眼差しに、死を目前にした佐久間さんの、魂の救済のあらんことを祈りたい。