AKB48の旅

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宇野常寛さんの「思想」

2013年03月09日 | AKB
NHKの番組と「日本文化の論点」を読んだだけなんで、何にも知らない身で宇野さんに対する批判とか、おこがましいにも程があるのは重々承知してるけど、その「日本文化の論点」の終章「<夜の世界>から<昼の世界>を変えていくために」を読んでて、宇野さんの「怒り」ってルサンチマンじゃないよねとか、いらぬ懸念とか、以下訥々。

<夜の世界>という語感がアレなのかも知れないけど、サブカルチャーを卑下する必要はないと思うし、そもそもすべて死すべき存在である人間にとって、メインカルチャーに対するサブカルチャーみたいな対比というか、上下関係というか、そういう概念設定自体が無意味だと思う。そこにあるのは、いかに人生を生きるか、生きるという刹那を楽しめるのか、豊かに過ごせるのか、それだけのこと。

むしろフレームワークを、人間存在を規定する、絶対的に制限する条件設定の在り方に持って行って、哲学的表現として生老病死でもいいし、もっと噛み砕いて、飢餓であり、病気であり、戦争であり、死すべき存在であるというあたりから、議論を始めるのが吉のように思う。つまりメインカルチャーというのは、そういう条件設定からの、ある種必然であったと。

だからどうしたということなんであって、確かに生老病死というのは人間存在の必然ではあるけど、取り敢えず現代日本社会には、基本、飢餓はまずないし、ぶっちぎりの衛生環境と栄養と、おまけで医療の充実で、少なくとも若いうちには病気の心配もそれほどない。最近はきな臭いとはいえ、戦争の心配もまずない。そういう条件設定だと、メインカルチャーの必然性は薄まる。

生老病死という原点は、残念ながら不変だけど、そこを見つめようというのであれば、現代でも方策は宗教しかない。これは二千数百年前に「こころ」というものが生まれて以来、どうしようもない現実なんであり、どうしようもない以上はスルーするというのが、取り敢えずの知恵というものだし、それが可能なのも、実は日本だけだったりする。

一方、文化となると、それが生老病死的なレイヤ、宗教でしか対処できないレイヤと違って、それなりに対処することが許されるとも言える。宗教という基層からの影響には注意が必要だろうけど、自由度は大幅に上がる。けれども、私たちが知るところのメインカルチャーと呼ばれるものが醸成されてきたのは、それこそ戦争の世紀であるところの20世紀なのであり、人口爆発による飢餓が蔓延した時代であり、あまつさえメインステージはキリスト教世界だった。

飢餓のない、病気の心配のない、平和な世界、そういう条件設定は、かつては夢物語だったかも知れない。けれども、世界で最も幸せな国である日本では、この条件設定は実現可能だし、事実として実現してると思うし、その条件設定で生み出されたものを敢えて「サブ」カルチャーと呼ぶ必要もないと思う。

そこにもし問題があるとするなら、それはサブカルチャーという概念設定の問題というよりは、多くの日本人の若者が、自分が住んでる国が世界一幸せな国であることに気づけないことなのかも知れない。