AKB48の旅

AKB48の旅

宇野常寛著「日本文化の論点」

2013年03月08日 | AKB
あまり喧伝されていないようだけど、宇野さんの近著「日本文化の論点」の内容が、ほぼAKB論になってる。表題にAKBの名前を入れなかったのは、意図的かなとも思うけど、どうだろう。入れた方が話題になったような気もするけど、もしかしてそうではない層、それこそAKBに対する無関心層への訴求を考えたということなのか。

内容的にも、濱野さんの「前田敦子はキリストを超えた: 〈宗教〉としてのAKB48」が宗教論ならぬ信仰告白なのに対して、こちらはきっちりAKBと距離を保った上での、文化論、そして日本論になってる。確かに、一般的に受け入れられやすい方向性だとは思うけど、これだと宇野さんの読者しか、手に取らないんじゃないか。事実、私がこれを読んだのも、AKBへの関心ではなく、AKBに関心を持つ宇野さんへの関心だったし。

実際の内容だけど、AKB論の部分の問題設定は、勘違いとかでなければ、不肖私とほぼ同じと言い切って良いと思う。そこに辿り着くまでの、前提として提示されている議論が、けっこう私の考え方と違ってるというか、「夜の世界と昼の世界」という対立的な視点とか、「地理と文化」の立脚点とか、そもそも戦後世界の理解が、私とは相当程度異なってると思う。

なのに、AKBを見つめる視点が、ほぼ同じ。ちょっと不思議な感じもしたけど、異なった方向性からの議論が、同一の答えへと収斂していくのだとしたら、その対象、つまりAKBの存在様式がそれだけ本物だということ、強固だということを示しているのかも知れない。

こう言い切ると、AKBについて誤解されてる方が多いということとの整合性がどうなるのかとか突っ込まれそうだけど、そこは単純に理解度の問題に過ぎないだろうと思う。AKBを正視するためには、いくつかのレガシーな常識と倫理規範をリセットする必要があるわけで、そこは私が正にそうだったし、宇野さんもまったく同様のことを、本文の中で述べられている。

後は、ちょっと気になったことなどをつまみ食い。「物語」という言葉をイデオロギーと同一視してるともとれる書き方は、ちょっと??だった。確かにイデオロギーには「物語」としての側面もあるけど、本質は、そのもうちょっと先ではないか。あるいは、ソフトウェアとハードウェアという言葉の使い方が、特殊すぎないか。その他モロモロ。

議論の違いとか視点の違いは、百人いれば百通りなのは当たり前なんで、そこは良いとして、やはり詰まるところ、引っかかったのが用語だったりする。けれども、これはたぶんカテゴリー問題なんだろう。そういう用語を使うP2Pグループがあって、それを私が知らないだけとか、そんな感じ。

ならば、宇野さんの用語で受け入れるべきなんだろうけど、それでもイデオロギーという言葉なんかのとらえ方の違いは、決定的なような気もするな。このあたりが、戦後の歴史の理解の違いとかとかぶってくるとなると、いろいろ面倒かも。