AKB48の旅

AKB48の旅

勇み足で「AKB白熱論争」

2012年08月31日 | AKB
秋元康が感想文司令出してることだし、オモシロイっちゃあ間違いなくオモシロイんで、時間が取れない中、まだ半分も読めてないんだけど、フライングゲットのさらに手前でどうしても一言書きたくなった。

まずなによりこれを言っとかなきゃいけない、わしズム31の「大激論」って、これのダイジェスト、しかもへたくそなダイジェストだったのね。それならそうと書いてくれ。それとも断り書きの見逃し?

第一章「なぜ今、AKB48しかないのか」を流し読みしかできてないけど、とりあえず分かったこと、わしズムの方で感じた違和感のようなものの原因の一つが、高橋みなみさんの評価にあるのかなと感じた。本ブログは一貫して、AKBはたかみなを中心としたシステムというか、AKB共同体の結節点とみなしてるし、この考え方を変える必要を感じないし、たぶん正しいんじゃないかと思ってる。

けれども「AKB白熱論争」の論者からは、そういう視点は感じられない。劇場公演、握手会、そして選抜総選挙という、仕組みと仕掛けを重視するのはもちろん全く正しいと思うけど、ではなぜそれで回るのか、機能しているのかという部分、それこそ「非選抜アイドル」の視点が欠け落ちてるように見える。

今のところまだ出てきてないけど、「非選抜アイドル」についての言及はあるのかな。それと、やはり「思想」の臭いとでもいうか。「かくあるべし」な物言いがなんとも。複雑系的な視点が欠けてるような気がする。まあ私が勝手に言ってるだけだけどね。

このあたりちゃんと読み通してから言うべきことなんだけど、正直、あんまり批判とかしたくないんで、こうやって中途半端なところで、生半可のイタいこと書き捨てます。ハイ。

フォトブック あっちゃん

2012年08月30日 | AKB
ようやく一通り目を通せた。テキスト量としてはそれほど多くはないと思うけど、内容的には充実しているし、興味深いものだった。なにより、前田敦子とは何者なのかに、わりとシンプルにストレートに答えてくれる内容になってると思う。いちおう本ブログの考察の大枠を変える必要はないようでほっとしたけど、まあ、反省点としては、深追いしすぎてたなあとかは認めざるを得ないかな。

中でもいちばん印象に残ったのは、前田敦子という私的な存在と、AKBセンターという公的な存在が一体化してると思われること。たかみなの公的あり方については、何度か触れてきたけど、当然ながら前田敦子という存在も、優れて公的な存在だった、それに今更ながらに気づかされた。

そこにメンバーが、とりわけオリメンと大島優子が巻き込まれていった、いや、進んで参加していった結果が、AKBという存在なんだと、腑に落ちた感じがした。まあ対談がオリメンと大島優子なんで、そう見えるだけかも知れないけど、これはたぶん「聖性」というものと関連するんだろうとも思う。前田敦子という存在と深く関わった範囲、その「聖性」に携わった範囲が、彼女らだったと言うこと。

渡辺麻友、松井珠理奈ら、個別のインタビュー組の内容は、明らかに遠巻きに見てる感触で、前田敦子の「聖性」の内部ではなく、外から見上げている。ある意味ファンと同じで、その「聖性」にあこがれてる。アイドルと「聖性」の問題は、これまでも議論されてきたように理解してるけど、その多くは俗世界とは違う芸能界の隔離性、高嶺の花の向こう側的な演出に、その淵源を求めていたように思う。

けれども前田敦子は違った。俗世界の中にあって「聖性」を護持し続けた。それを可能にしたのは、もちろん秋元康の演出なんだろうけど、どんなにハイレベルの演出があっても、誰でもができることではない。否、そんなこと誰にもできるはずがないのに、前田敦子は成し遂げてしまった。これは何なんだろう。前田敦子は「普通の子」。そこは変更の必要はないと思う。なのにアイドルとしての頂点を極めてしまった。

高橋みなみはメンバーが担いだリーダーだったけど、単なる御輿ではなく、ストイックで理想的な48G全体への奉仕者となった。前田敦子はファンが担いだアイドルだったけど、単なる御輿ではなく、ストイックで理想的なシンボルとなった。その困難さは想像するにあまりあるけど、とにかくそんなことが成し遂げられてしまった。そしてここにもフラクタルのごとくに、階層構造にして相転移が潜んでいる。

たかみなとメンバーとの関係性は直接的であるのに対し、前田敦子のそれは間接的、疑似双方向的だった。だからこそ、前者が共同体として振る舞っているのに対し、後者は幻想としての共同体を超えた「共同幻想」なのであり、つまりは「神」ということになるのか。

いずれにせよ「聖」と「俗」、「公」と「私」、アイドル論はたぶんそこに行き着くはずで、これは正に宗教論なんだろう。このあたりはものすごくめんどいので、また機会があったらということで。読み返してみると大甘な議論だけど、これはこれにて。

ひるおび田原総一朗さん

2012年08月29日 | AKB
比肩するのもおこがましいにも程があるんだけど、ついついにやにやしながら見てしまった。本ブログの最初の方を見ればお分かりいただけると思うけど、私自身とかぶる部分が多くて、ああ、同じ道に足を踏み入れられたんだなあと、感慨もひとしお。あちこち間違ってたり、勘違いがあったけど、既にして一番大事な基本線は外してなかったと思う。偏見にまみれてる人ばかりの中で、自身を省みても、そこは素直に偉いなあと思った。

嵌まるきっかけが秋元康ということで、これはAKBがいまだ手中に収めていない、日本国民の最大派閥である高齢者を、いよいよ本格的にターゲットにしてきたのかなと。ナベツネなんかもそうなんだろうけど、まあ、良いものは良いんだから、その広報活動や大いにやるべしと。

AKBの取扱に苦慮してるテレビサイドにしてみれば、願ったりの人材出現なわけで、日本のためだけでなく、人類文明のためにも、最後のご奉公をお願いしたいな。

一方で、某元大統領婦人におかれましては、マクロスをご覧になられることを、どなたか進言されてはと。

無への跳躍

2012年08月28日 | AKB
3日続けての読売新聞サイドへの「お布施」だけど、水面下で何が進んでいるのか知らないけど、それはそれ。

以下読売新聞8月23日全面広告から引用

2005年10月30日。

オーディションに合格した君たちに
僕は言った。
「東京ドームへ行こう」
全力で伸ばした掌の1ミリ先に、夢はある。

秋元康

AKB48は証明してくれた。夢は叶うんだ。

以上引用

この「1ミリ先」という表現は、最初のドキュメンタリーのNHK版にも使われてて、私がこのブログを始めるきっかけになったのは既述。

何も見えない真の闇。その闇の一歩先、それこそ「1ミリ先の未来」に、足場があるかどうかは決して分からない。そこは底なし沼かも知れない。地獄の淵かも知れない。無そのもの、死があるだけなのかも知れない。けれども、その一歩を踏み出さなければ前には進めない。何も得ることはできない。

これは混同しやすいんだけど、ファーストラビットの比喩とは似て非なるもの。ファーストラビットは、そこに求めるものがあること、夢があることを確信してる。その姿が見えすらする。けれども「無への跳躍」は、そこには何も見えない。「無」そのもの。

その一歩を信じて歩み出す勇気、そこに足場はあるんだと信じて飛び込む勇気、それはほぼ信仰なんだろう。けれどもそれが現実なんであり、生きるということはそんな戦いの日々なんだ、そういう世界観。AKBが誤解されやすい理由の一つが、この世界観、そして「信仰」に無自覚なところなんだろうなとも思う。

まあ、そういう無自覚がザ日本人なんだけどね。

AKB48 in TOKYO DOME~1830mの夢~

2012年08月27日 | AKB
直接見ないで言うのも何だけど、可能な限りの映像を確認する限り、すばらしいものだったよう。ネットを見回しても、まだ参戦レポートは上がってきてないようだけど、SSAをも軽く凌駕するできだったんじゃないか。SSAの時は割と早めにレポートが上がってたように記憶してるけど、今回は何か理由があるんだろうか。やはり初日のサプライズが強烈すぎたのか。

でも、初日だけではない、二日目も三日目も、48Gの歴史を考えるとき、初日のサプライズをある意味超える一大イベントだったんじゃないか。二日目は高橋みなみさんの、三日目は前田敦子さんの、それぞれの長年の労をねぎらい、あらためて心からの感謝を伝える、高橋さんは「総監督」となり、前田さんは「卒業」となり、あらためて48Gの中と外から、48Gを支える、礎となる、そういうことなんじゃないか。すごすぎるとしか。

これまでは二人が核となり、中心となり、48Gをその周りに作り上げてきた。あるいは二人を担いで、48Gが自己組織化して行った。けれどもこれからは、二人が正反対の方向、中心とその最遠位端へと分かれて、48Gをそれぞれの間に展開させる、そういうフェイズになったんじゃないか。これが48Gバージョン2の姿なんだろう。つまりはインフレーションの始まり。

前田さんが志半ばで倒れる、ファーストラビットであればこそ、その可能性は十分に高いけど、その屍を超えて二の矢三の矢が放たれる、そういう展開が可能になる布陣をというのが、初日の組閣の意味になるんじゃないか。この読み筋で合ってるんなら、そして秋元康はそういう人だと思ってるけど、東京ドームコンサート三日間の設計のなんという見事さ。

そしてそういう展開を読んでるんだとしたら・・・これ以上書くのはやめようか。もしそうなったとして、その時のたかみなの気持ちを想像するだけで、胸が苦しくなる。北原理英さんは「平成のマザーテレサ」と評したけど、直感としてのその比喩の正しさに唸らざるを得ない。