AKB48の旅

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山形浩生先生の「前田敦子はキリストを超えた ー<宗教>としてのAKB48ー」書評

2012年12月16日 | AKB
http://d.hatena.ne.jp/wlj-Friday/20121210

書評の書評じゃないけど、取り上げるかどうかいちおう迷った。迷ったけど、ある種典型例だなと思うんで、翻って自身の立ち位置を確認する、そんな良い指標になるかなと。

一言で言うと、やっぱこうなるかなあ、あたりかな。AKBに無関心から、むしろどちらかと言えば毛嫌いしてる人、たぶん日本人の中でも多数派なんじゃないか。日本人という括りがまずければ、山形さんが属するであろう、インテリな人。いわゆる「勝ち組」な人。社会人としてそれなりのキャリアを歩んでいる人。うーん括りって難しいな。母集団から離れるだけで、ちょっとした「操作」が加わってしまうことになる。これだから、何を指し示しているわけでもない「一般人」なる曖昧なカテゴリーでお茶を濁すことになるんだろう。

めんどい話は置いといて、その「一般人」でいいや、その、これは典型的な反応だとは思う。そりゃあそうなるよねと言うことで、それで終わりにしてしまおう、冒頭で「迷った」表明をしたのはそういうことなんだけど、なんか堂々巡りしてるけど、そんな「反応」を見越した上で、濱野さんはそれでも敢えて「信仰」を語ったんじゃないかと思うし、それはある種自己犠牲の精神で、正にファーストラビットのごとき言説としての「前田敦子はキリストを超えた ー<宗教>としてのAKB48ー」だったんではないかとすら思えて来る。

愛の反対は無関心なんであり、であればこそ、まずはアンチに引き込むこと、そこからが始まりとも言える。そういう観点では、こうして山形さんに「ごみくず」書評を「書かせた」というのは、もしかして大勝利なのかもしれない。「ちんころアイドル」してやったりなのかもしれない。そして、このような書評を書いた上で、山形さんが自らの「無知」に気づけるとしたら、インテリであればあるほど、こちら側に辿り着くことになるだろうし、そうならなければ、それだけの人、縁がなかったということになる。

以上のような考え方に妥当性があるとするなら、「前田敦子はキリストを超えた ー<宗教>としてのAKB48ー」が熟慮推敲された形跡がないように見える、全体を通してやや雑な論考に思えるのには、理由があることにはならないか。

つまりはスピード。AKBの時間の流れはものすごく速い。その動的平衡は前のめりだけど、決してカタストロフには落ちない。そんなダイナミズムの中、今このタイミングで書かれなければならない、世に放たれなければならない言葉がある、濱野さんがそんな使命感に駆られ、自動筆記の如くに預言が与えられたと言うことではないか。

実際、「あとがき」をそういう視点で読むと、そんな理解が決して独りよがりでもないことが分かると思う。そして、考えてみるに本ブログも、私的なAKBお勉強ノートというフリをしつつ、こうしてネット上に公開していると言うことで、実は同じ思いを共有しているのかもしれない。濱野さんの使命感の爪の垢ぐらいの役にはたてていられればなと、柄にもなく書いてしまおう。なんかはずかしいお。