AKB48の旅

AKB48の旅

「前田敦子はキリストを超えた-<宗教>としてのAKB48-」

2012年12月11日 | AKB
駆け足で読了。例によって正直に書けば、後半は読み飛ばした。読み終わって、と言うか読んでる途中から感じてたのは、論評の難しい本だなという辺り。誤解を恐れずに言うと、内容的にはそれほど難解ではないどころか、ある意味とても分かり易い。けれども評価が難しい。

より具体的には、基本的な認識とか、使われてる概念とか、事実関係とか、それぞれのパーツとして見た場合、ほとんど異存がないどころか、本ブログで書いてきたこととの違いを見つけることの方が難しい。そりゃそうだ、自慢するつもりはないけれど、可能な限り正確な情報に依拠し、冷静に俯瞰するなら、AKBの見え方にそれほどのぶれが発生するはずもない。濱野さんと私の基本認識は少なくとも大きな違いはない、そう言って良さそう。

けれども、そこから立ち上がる議論の方向性が違う。意見が違うとかそういうレベルの話ではない、展開の方向性が90度ずれてる感じとでも表現すれば良いんだろうか。方法論的な観点のさらに向こう側、断定するのを躊躇うけど、濱野さんは言わば「信仰告白」から出発してる。「宗教としてのAKB48」という視点は同じとしても、「宗教学」としてではなく「信仰」の視点を選んでる。

このあたり、ヨセフスの証言や死海文書から史的イエスを割り出そうという困難さと、ニケーヤ信条に基づいた聖書のテキストクリティークの対比のようなもので、分かり易さ、おもしろさという点で後者が明らかに優れてることになり、それ自体が否定されるようなものでもない。そして何より「現前」するAKBという宗教を取り扱う、よりふさわしい立場という判断なのかもしれない。

けれども、「信仰」となると、どうしても議論に普遍性を持たせ辛くなるし、事実、後半は議論が破綻とまでは行かなくても発散気味、あるいは例によって誇張表現だけど、牽強付会、我田引水的になってると感じてしまったし、それ故、読み飛ばすことにもなってしまった。このあたりは勘違いしてるかもしれないんで、時間がとれたら再読してみるつもり。

それ以前に気になったのは、日本文化、とりわけ山本七平氏への言及がなかったことと、マックスウェーバーの名を持ちだした割には、キリスト教の扱いが雑に見えること。専門家ではないとのエクスキューズを何度もしていたとはいえ、教義上は予定律を取るキリスト教という一神教の特異性は押さえておくべきだと思うし、「偶然性」に言及する以上、因果律と予定律の概念に触れないのはどうだろう。これは多神教と一神教の概念にも直結するクリティカルなものだけに、意図的な混同だとしても疑問に感じる。

うーん、あんまり批判的になるのも何なんで、話の方向性を変えて、それでもこういう本が書かれることは歓迎されるべきことかと。少なくとも「AKB48白熱論争」よりは内容的にはるかに深まってるとは言えると思う。ただどうなんだろう、「信仰」の視点は、疑似体験的な表現が使えるし、実際そういう内容になってるんで、分かり易くなってる反面、AKBムーブメントの外部の無関心層や「AKBアンチ」、つまりは広義の「異教徒」からは、余計に排除され易くはならないか。

いかんいかん、どうしても書き方がネガティブになるな。いずれにせよ、論点はてんこ盛りなんで、そこを積極的に評価するべきかと。ただし、「信仰」が土俵では宗教戦争にしかならんので、そこは次回から「宗教学」にしませんか?まあ、こんな誰も読んでないブログに書くことでもないけどね。