よしなごと徒然草: まつしたヒロのブログ 

自転車XアウトドアX健康法Xなど綴る雑談メモ by 松下博宣

起業家、社会性、資本主義をめぐる議論

2010年03月26日 | ビジネス&社会起業
すべての起業家は「社会的」なのだ、とStanford Social Entrepreneurship ReviewのなかでEwing Marion Kauffman FoundationのCEO,Carl Schramm は書いています。

その全文はこちらです。

ちなみにCarl Schrammは、 The Entrepreneurial Imperativeの著者でもあり、Good Capitalism, Bad Capitalismを共著しています。Carl Schrammの言説は、起業という社会現象を資本主義という体制から俯瞰して議論するものであり、注目に値します。

さて、Carl Schrammに限らず、社会民主的な伝統が強い欧州では、社会起業と起業を峻別する傾向が強いのに対して、アメリカでは、社会起業と起業をことさら区分すべきではない、という議論が存在してきました。

もちろんこのブログでも何回かとりあげたように、アメリカでもsocial entrepreneurはブームのような状況で、fashionable な響きさえ帯びています。金融資本主義や強欲資本主義の暴走の成れの果てにリーマン・ショック、そしてそれに続く長期的な資本主義の衰退が見て取れる、とする立場からは、あたかもSocial Entrepreneurshipを、それらに対する対置概念として位置づけたいとする願望もなくはないのでしょう。


<以下貼付け>

Over the past decade or so, the term social entrepreneur has become a fashionable way of describing individuals and organizations that, in their attempts at large-scale change, blur the traditional boundaries between the for-profit and nonprofit sectors. Given the ceaseless appearance of innovations and new institutional forms, we should welcome a new term that allows us to think systematically about a still-emergent field.

One danger, however, is that the use of the modifier social will diminish the contributions of regular entrepreneurs―that is, people who create new companies and then grow them to scale. In the course of doing business as usual, these regular entrepreneurs create thousands of jobs, improve the quality of goods and services available to consumers, and ultimately raise standards of living. Indeed, the intertwined histories of business and health in the United States suggests that all entrepreneurship is social entrepreneurship. The pantheon of model social entrepreneurs should thus include names such as railroad baron Cornelius Vanderbilt, meatpacking magnate Gustavus Swift, and software tycoon Bill Gates.

<以上貼付け>

日本の「社会起業」に対する見方は、欧州や米国とも異なり、情緒的なものが多いように見受けられます。

先日、Ashoka財団のBill Draytonさんと議論した際にもこの点があがりました。本質は起業という行為であり、ビジネスモデルとステークホルダーとの関係性のなかに「社会性」が埋め込まれていれば、営利企業とて社会的企業であり、そのような企業を創業する起業家は社会起業家である、という点で議論は一致しました。

またBase of Pyramidの健康に深く関与している社会的企業として名高いオーロラボ(Aurolab)社を起業したDavid Greenさんも、「私は、最近は自分たちのことを社会的企業とはあまり言わなくなりました。高ボリューム・低マージンモデルのビジネスを市場の中で行っていることが社会に受け入れられているだけなのです」と言っていました。

Bill DraytonさんやDavid Greenさんとの対話してみて考えたことについては、こちらで掘り下げて書いています。

「社会性」という概念は、企業の外縁部にあるときには、フィランソロピー(社会貢献活動)、CSRとして位置づけられますが、外縁部ではなくビジネスモデルやステークホルダーとの関係のど真ん中に埋め込まれるときに、企業は必然的に「社会的企業」となってゆくのでしょう。しかし、それが成就された暁には、「企業」と「社会的企業」を区別するのは、さほど有意味なことではなくなるのです。

資本主義の主要なプレーヤーはイノベーションとそれに伴なうリスクを引き受ける起業家です。その起業家が創発させる「企業」のあるべき姿と、そこにいたるプロセスである「起業」のスタイルが問われていると思われます。これらが変化すれば、必然的に資本主義のスタイルも変化するからです。

旧態依然としたゾンビのような企業がぬくぬくと保護されて延命している社会では資本主義は変化できません。

このような文脈では、起業家育成とは「まっとうな」資本主義のfostering(涵養、育成)と同義なのです。金融資本主義や強欲資本主義に蹂躙されているアメリカで、「まっとうな」資本主義をはぐくむための起業家育成がブームになっているのはコインの表裏ということです。この動向については、アメリカ社会のダイナミズムを直視すべきでしょう。

さてGlobal Entrepreneurship Monitorのレポートにもあるように、日本の起業動向は長期低迷傾向が続いています。社会のダイナミズムが端的に顕れる領域が起業なので、この傾向を素直によめば、日本資本主義の自己再組織化、卑近な言葉でいえば「変化」は活発とは言えません。

日本は、アメリカの直接的な影響下にありますが(「属国論」など参照)、「まっとうな」日本的資本主義に変化させてゆくためには、「まっとうな」起業家の輩出が待たれるところです。「まっとうな」起業家はすべて社会的な存在であり、「まっとうな」起業家の溌剌たる活動が「まっとうな」社会の再構築、ひいては社会原理としての資本主義の再定義に結びついてゆきます。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿