ばばちゃんのおっちゃんの日本語の先生への道

日本語の先生になろうと一念発起いたしました。

その174 メタ認知

2018-06-16 03:58:53 | 6.私の感想・考え

メタ認知

 日本語教育能力試験の学習範囲に有って、最近、時々目にする言葉なので、ちょっと調べておりましたら、「認知の特性」に4種類が有りますと有りました。私には「メタ認知」そのものの本論より、こちらの方に興味が有ります。

即ち、

文字タイプ・・・・文字認識に優れているタイプ

絵・図タイプ…イラストや図解でとらえるのが得意なタイプ。

音タイプ・・・・・・音でとらえるのが得意なタイプ。

感覚タイプ・・・・モーションや映像でとらえるのが得意なタイプ

が、あるそうです。

「文字タイプ」は、学校の優等生タイプだそうで、文章を読むのが得意。また、授業ノートをカラフルに仕上げて居たり、落書きが有ったりするのは、「絵・図タイプ」で、歌を覚えるのが得意ならば、「音タイプ」。そしてダンス、ダンスや動きを覚えるのが得意なのが「感覚タイプ」だそうです。何となくわかる気がしますが、でも、そのいずれでもない人も多いのではないかと感じますが・・・・ 

 ということは、見方を代えますと、私が今勉強しています日本語教育は、言ってみれば、文字タイプの人間が、シラバスを考え、教科書を作り、そして、学習者が全員「文字タイプ」とみなして、講義を行っているのではないかということです。もし、そうだとしますと、これでは、残り3タイプの学習者は、不得手な所で勝負していることになります。

 試験対策で勉強いたしましたが、いろいろな種類の学習方法を提案されていますのはそのせいかもしれません。しかし、余り採用されていないのは、もし、教える方が文字タイプの先生だとしますと、そういう感覚的なセンスがお持ちでないか、弱いかのいずれかで、残り3タイプの学習者には、恐らく、ピンと来たりしないでしょうし、痒い所を掻いてもらったりは出来ないでしょうし、置いて行かれるでしょうね。

 もし、文字タイプの先生も、前以て、そういう知見が有りますと、観察して、気が付くかもしれませんが、全くない場合は、見過ごしてしまうでしょうね。また、それが分かった場合、具体的のどうもって行けばよいのか前以て勉強して置く必要もあるようです。

 本論の方は、現在の我々が、多かれ少なかれやっていることで、それを系統的に、網羅して、システムとして機能させようとしているようです。また、独断と偏見に陥りがちな自分独自な「見直し」を、客観的に行うために、もう一人の自分を想定して、彼に適切に実行しているか監視させ、そしてあなたに実行させようとしているようです。

 私には、そんな簡単にいくのか疑問が残ります。例えば、試験で見直しを実行しますが、時間の制約も有り、集中力、忍耐力が、持たないし、安心してしまうのか、形だけの見直しになってしまい、やはりミスが出てしまいましたというように、分かっていても、パーフェクトには実行できないのが普通でしょう。この辺を突っこんで解答を用意してもらわないと、大きな効果は期待できないのではないかと考えます。人間は機械ではないので、スイッチを入れたからと言って、完全に実行できるということにはなりません。そのジレンマを解決いたしませんと、やらないよりやった方がましという程度のものでしょう。

 例えば、北島康介氏のアドバイザーを務められた脳科学者のお医者さんは、「勝負脳」ということをお教えになっています。ゴールは、もう5m先だと脳に思い込ませ、ゴール前で、スピードが落ちるのを防ごうとなさったそうです。しかし、考え方は、分かりますが、そのためには、更に、脳を騙して、脳に信じ込ませ、実行させるための、また別の考え方なり、テクニックが必要でしょう。その程度まで突っ込んでやらないと、アイデア倒れになってしまいます。

 要するに、今まで、適当にしか見直しをやっていなかった人が、チェックリストを作り、そのチェックを見落とすことは今までより少なくなりましたという効果はあるでしょう。 

 本当は、逆になってしまいましたが、この件を調べて居る時、前々項の「その172 New Text」のサイトを見つけまして、そちらを先にブログに掲載しましたが、それは、「絵・図タイプ」の方には、もってこいのテキストではないかと感じたからです。

 私の年代では、実務で、理解を促進させるためには、図式化、視覚化というのが叫ばれていました。私は、絵が上手に書けませんので、もっぱら、作表して、視覚化を図ろうとしてきました。このブログに表が多いのもそういう理由からです。所々で「mind map」を利用しますのも同じ理由からです。英語版の方も、作表が多い訳ですが、言葉を使わなくても、システマティックな日本語を作表で理解してもらえるのではないかとの目論見です。 

 また、「音」方から見ますと、沢山「音」のある言語の方は、「音」に強く、すぐ、オウム返しが出来るようです。ところが、我々日本人は、音が少なく引き当てる音が有りませんので、記憶に残り難いです。従いまして、オウム返しが出来ません。(これは韓国で経験しました。自己紹介時、聞いただけでは名前は覚えられなかったのですが、漢字で示してもらいますと完全に記憶できました。)彼らに対しては、日本人が考えますより、もっと、「音」を利用した学習方法が有効と言う仮説が成り立つかもしれません。実感としまして、前述のように、日本人は、彼らとは異なり、耳からではなく、目から入って行くように感じます。そういう理由からか、西洋人は、ノートも取らず、対面して会話から入ろうと致しますが、日本人は、教科書、ノートから入って行っていかないと自信が有りません。尤も、地続きで言葉が入り乱れたヨーロッパ大陸と、孤立し、単一言語の日本とでは、地政的なドライブの掛かり方が異なって、そうなっているのかも知れませんが、日本人側ばかりから見ていますと、種々の判断を間違えるかもしれません。

 


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