ばばちゃんのおっちゃんの日本語の先生への道

日本語の先生になろうと一念発起いたしました。

その58 敬語

2016-07-31 04:58:02 | 6.私の感想・考え
敬語
 敬語の必要性を述べておられる記事を見て、私の気が付かないような視点からの話でしたので、書き留めました。

 最近では、何でもかんでも、ケイタイ、スマホで解決を図ろうとしますが、大丈夫でしょうか。
 私の経験からしましても、電話を使って、母語以外の言葉でやり取りする会話の難しさ。これは並大抵ではありません。特に、外国へ行ったときの電話での飛行機の予約、再確認は、飛行場のカウンターで、手続きするまで、うまくできているかどうか、不安でしかたありませんでした。また突然の外国からの電話。余りにも突拍子過ぎて、思いを巡らしますが、一体、何を話題にしているのかさっぱりイメージが沸いてきませんでした。先に、要件をファックスで、知らせてくださいと、伝えましたが・・・・・。

 そして、日本で生活する場合、もう一つハードルが有ります。お世話になる役所、会社の受け付けも、コールセンターの担当者も、たとえ、普通体、丁寧体で応対してくれるように依頼しても、してくれないそうです。もともと、彼らは、業務上、敬語を使うように訓練されていますので、どうしても敬語が入って来るようです。
 ということで、「敬語」から逃避するのではなく、「生活に必要です」よ、という認識をさせる必要が有るそうです。



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その57 書き言葉

2016-07-30 04:49:19 | 6.私の感想・考え
書き言葉

 「会話」だけに限って言いますと、極端な話「子供の日本語」だけででも会話が成り立ちます。現に日本の子供は、そうしていますし、間違いなく、外国においても、全く同じ現象が起こっているでしょう。

 そして、たとえ、「子供の日本語」であっても、会話が成り立てば、話がどんどん前へ進み、また、話のつじつまさえ合っていれば、多少不自然な日本語であっても、誰も訂正したり、わざわざ、アドバイスしたりはいたしません。
 従いまして、学習者が、うっかり、会話だけに頼っていますと、子供の日本語レベルから脱皮できないということが起こるそうです。単文や、短文ばかりで、長文、複文が作れない。書けない。

 日本人の幼児たちは、その後、学校で、日記を書かされたり、作文したりして、複文、長文が書けるように訓練していますが、日本語の学習者は、そうしているでしょうか。そういう点にあまり注意が行っていないのではないでしょうか。
 まず、文書、書類は書けますか。そして、書いた日本文は、小学低学年の作文になっていませんか。

 私の提案は、ボランティアの先生を煩わし、電子メールを交わして、日本文の添削を、受けてはどうかということです。

 基本的には、作文し、接続詞、接続助詞を使って、長文、複文を作る練習をするということになるでしょう。添削を受けることによって、ご自分の弱点がわかりますし、普段の会話では気の付かない間違いの指摘も受けることができます。 

「不自然な日本語」から「自然な日本語」へ、「子供の日本語」から「大人の日本語」に脱皮できる近道ではないかと考えます。

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20160725

2016-07-29 05:44:41 | 7.私の日誌
日本語教室

 本日の担当は、一級の検定試験を受けてその結果待ちの年配の学習者。
 新聞記事を読み上げ、いろいろな問題点を取り上げて、会話を進めていきました。記事の内容が把握できているか、単語の意味が分かっているかを聞き直したりして、確かめて行きました。
 新聞には、話し言葉では、あまり使わない書き言葉が、頻繁に出てきますので、それらを中心に行いましたが、やはり、いくら辞書を使って調べても、意味を取り違えているという現象が、時々出てきます。

 学習者のお悩みは、普段の生活においては、そういった点を気づかせてくれたり、直してもらえるというような環境が、身近にないということのようです。すなわち、意味を取り違えていても、フィードバックして再検討するようなシステム、段取りにはなっていませんので放置しっぱなしになります。
 従いまして、何かを変えないと、永遠に、この状態が続いてしまということになります。

 また、よく考えて見ますと、このレベルの方へは、日本語教室に参加しても、「課題」だけに終わってしまい、「生(なま)」の会話に接する機会は、ほとんどないのではないでしょうか。
 そして、恐らく、生の会話では、このレベルの方に対しては、誰も、間違いを指摘したり、アドバイスをしたりはしないでしょう。
 なぜなら、聞き手の日本人にとっては、相手が、何を言っているのか、何を話したいのかが分かれば、それで十分。それさえわかれば、あえてごちゃごちゃ言わないでしょう。
 ということで、このままでは、上記のような状況が起こるものと推測します。

 一般的に言いまして、会話だけでは、言いっ放しになり、ことばは、何も残らず、消えていくだけです。また会話だけでは、単文や、短文だけで済んでしまい「子供の日本語」で足りてしまいます。
 「子供の日本語」から「大人の日本語」へ脱皮するためには、やはり、複文を熟さなければなりません。どうしても、子供の作文、英作文の添削といったような手法がどうしても必要ではないでしょうか。

 これは、本教室に参加されて日本人とメールのやり取りをして、ここで、その添削してもらっていた方からのヒントですが、現在では、「電子メール」という文明の利器があります。作文をして、添削を受けますと、普段、気が付かない間違いを指摘してもらうことができますし、どう修正すればよいかも教えてもらえます、書き言葉の学習ができ、「大人の日本語」に近づくことができるのではないでしょうか。

 「大人の日本語」を目指す方は、「日本語書き言葉」の習得を目指していただきたい。そして電子メールの利用を、お勧め致します。
 電子メールなら、時間の制約を受けません。双方の空き時間を利用して行えば、毎日でも、添削を受けることができます。どちらも推敲を重ねますので、中身の濃い学習になるのではないかと考えます。
 どうぞ、ネーティブからの添削を受けてください。






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その3

2016-07-26 15:33:19 | 5.検定試験
メモ
 本を使ってやるのではなく、ネットを使って、問題に当たる場合は、重要な点とか間違った点のメモが非常に取りやすい。しかし、記憶に残すためには、本当は、口も、目も、手も動かして、手書きするほうが良いのですが・・・・・
 先ずは色々なことが目に触れる方が、良さそうなので、取り敢えずはこの方法でやってゆこうと考えます。
(20160726)

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20160723

2016-07-25 03:48:33 | 7.私の日誌
日本語講座

 模擬授業の順番が、今回、私に回ってきました。テーマは、「~通りに、~。」です。
 既習の日本語と絵カード、ゼスチャー、簡単な会話のやり取り等で、導入する訳ですが、ポイントは、日本語の中には、類似のことばが、複数あり、その程度によって、使い分けなければならないことで、今回のテーマも、「何かと同じように動作等を行う」のですが、その模範、規範に従って行う動作の忠実度が非常に高いということです。
 講師のアドバイスは、「絵描き歌」や「おりがみ」を使ったらどうですかということでしたが、私は、遊戯のような「手遊び(大きな栗の樹の下で・・・・)」を利用しました。
 これだけでは、余りにも内容が少ないので、復習に時間を使いました。

 講義の進度は、単文を複文に直すと言う段階に入ってきていますので、「何故、複文にするのですか? 意思の疎通は、複数の単文でも、十分出来るでしょうに・・・・。例えば、幼児のように・・・・・」と言う説明から入りました。
「自然な日本語らしい日本語」を、お望みの方には、単文をたくさん並べる幼児の日本語でも意思の疎通はできますが、複数の単文を、繋げて長い文章(複文)にしますと、随分、日本語らしくなりますのでお薦めしたい。
 また、幼児の日本語、子供の日本語は、話し言葉としては利用できますが、余りにも幼稚過ぎて、書き言葉に利用出来ません。しかし、複文にすれば、書き言葉としても、十分使用することが出来ますと。
「子供の日本語から大人の日本語へ」「大人の日本語へは、複文がアシストしてくれます。」

 文章と文章を繋げるために、接続詞や接続助詞という言葉が、その役を担ってくれます。
 接続詞は、一語ででも意味が有ります(そして、それから、しかし・・・)が、接続助詞は、一語では、意味は有りません。しかし、動詞や形容詞の後にくっつけると、いろいろな働きをしながら、文章と文章を繋げてくれます。(~て、~ながら、~たり~たり・・・・)
「~通りに、~。」もその一つです。類似のことばに、「~ように、~。」と言う言葉がありますが、模範、規範に当たる範囲が広かったり、また、その忠実度も曖昧だったりします。

 慣用句的な利用として、「言われたとおりに、思ったとおりに。元通り、時間通り、注文通り、計画通り、・・」

 ちょっと手を抜いたところは、やはり、指摘されました。子供の日本語の例を列挙する時は、質問し、発話させて、板書する方法が望ましい。あるいは、文字カードを準備しておいて、示すほうが良いでしょうと言う評価を受けました。

 ただ、質問して、こちらの思うフレーズを発話させるという話術は、なかなか、高等過ぎて、まだうまくやれるという自信がありません。
 まず、私が、ことの本質をしっかり把握できているかどうか良く分かっていませんし、また、彼らが普段から、何を考えているのかよく分かりませんので、設問に対して、どんな回答が返ってくるか全く、予測がつきません。
 回答が、意図したところから外れていったとき、設問を原点に戻したり、言い換えたりして、再質問できるかどうか、またそのタイミングを、うまく計れるかどうか。
 あるいは、捻じ曲げてでも、意図するところへ持っていけるテクニック等々が要求されます。

 現在、講義を受けて、ことの本質を学んでいる最中なので、まだ、そのレベルには、だいぶ距離が有りそうです。できれば、自分で、複数の場面を、想定して、シミュレーションを、どんどんやってみたい。


 自分としては、既習の分かりやすい言葉を使ったつもりです(なるべく、類似のことばを使って、何種類か言い換えるようにしました)が、実際に理解してもらえる程度だったかどうか自信は有りません。取り敢えずは、対策として、「言い換え」を多用するようにして、その反応を観察し、効果の程を確かめたい。



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その56 お友達

2016-07-23 04:56:58 | 6.私の感想・考え
お友達

 近所のコミュニティーサークル(シニア・パソコン同好会)で、珍しい方にお会いしました。台湾育ちの日本人(Oさん)です。日本、ないしは外国語について私の考えを披瀝しましたところ、可成り合点してもらえました。
 あながち私の考えていることが、的外れではないことが分かり、自分の考えについて、自信をもって吹聴しても良さそうです。
今後は、私の考えます「日本語教育」についての考え方、やり方について、いろいろ評価、アドバイスをしていただけるものと期待しています。

 Oさんの日本語は、イントネーションと語尾の活用に、不自然なところが、多少見受けれますが、コミュニケーションをとる上では、全く不都合は有りません。
 やはり、「自然な日本語」「大人の日本語」がお望みのようですが、観察不十分なので、今のところ、何を、どう薦めて良いのか分かりません。
 英語もブラッシュアップしたいので、近所に知り合いがいないかも、お尋ねでしたが、生憎、私も知り合いは有りません。

 ということで、Oさんの場合も、現地のコミュニティーに入り込んでいますので、いろいろな話ができ、自然と、いろいろな情報に接することができると考えます。
残念ながら、たとえ、ボランティアの日本語教室に参加しても、教科書を学習するだけになりますで、無味乾燥なものになってしまうでしょう。

 こうやってみますと、90%以上日本語ができますが、100%になかなかなれないという方も結構いるのではないでしょうか。その方達向けに、何か良い教材はないものでしょうか。
 大体が忙しい方ばかりなので、余程、面白いとか、上達が実感できるとかでないと、長続きしませんし、あるいは,一つずつ、確実に積み上げていけるような方法が有れば、三日坊主をしても、しつこく繰り返していけば、多少とも、レベルアップにつながるのではないでしょうか。

 やはり、日本人のマインドを理解するには、「ことわざ」が良いかもしれません。
アイデア1:小学生向けのことわざをANKにアップロードする。⇒場面がイメージできる。好きな時に勉強できる。
アイデア2:活用語尾別に例文をANKにアップロードする⇒口癖にする。好きな時に勉強できる。(「みんなの」の例文1を参考にする)。この方法は、私が韓国語を覚えた時のやり方。ノート数冊に集め、発話の訓練をしました。



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その55 相対テンス

2016-07-22 03:49:19 | 6.私の感想・考え
相対テンスから
 相対テンスを考えていて気が付きましたことは、聞き手は、その時、一体、何をしているのかということです。
相対テンスの学習では、イジワル問題の如く無味乾燥な例文が並んでいるのは致し方ないのですが、聞き手の立場を全く考慮されていません。実際の会話では、聞き手は、自分の経験、一般的な常識、自分の考え方から、相手が、何を話したいのか、一生懸命、思いを巡らせている筈です。

 例えば、孫の話が聞き取り難かったので、言葉を、一字一字発音させますと、可成り好い加減な発音をしているのが分かりました。義母に適した補聴器を探しに行ったとき、検査に立ち会い、「音は聞こえますが、言葉として理解できない」領域のあることを再認識させらされました。すなわち、難聴の場合や未知の外国語の中へ入った時と同じように、音は聞こえますが、意味が分からず、「雑音」としか認識できない領域があるということです。そこでは、何らイメージが、働きません。

 恐らくそのギャップを埋めてくれるのが、「脳の働き」ではないでしょうか。要するに、いい加減なものから、「これに似ている、これだ」という判断から、イメージを膨らませて、ストーリーを考え、さらに、「いやこっちだ」という場合も、同様に、イメージを膨らませて、別のストーリーを構築し、特に、頭の回転の速い人は、一瞬のうちに、複数のストーリーを考え出すでしょう。
 そして、前段からの話の続きとして、辻褄が合うストーリーをピックアップして、話を完結させ、理解するのではないでしょうか。そして、辻褄が合わなければ、問い返したりするでしょう。

 要するに、何をイメージすることができるのか。特に、日本の生活や日本の文化、日本人の考え方に接していない場合は、言葉を掴み切れなかったり、イメージが広がったりしませんので、日本語の上達を考えるならば、やはり日本人の中へ入り込み、いろいろなケースに出くわさないと、情報の蓄積ができないのではないでしょうか。

 私の場合は、別の意味で、外国で、そこのコミュニティーに入り込んでいました。団地のテニスサークルに入ったり、毎週、アフターファイブに、社員とバドミントンをやったりしていました。
 日本では、小学生、中学生向けの本が沢山出版されています。分かり易く編集してありますので、マインドを汲み取ったり、丁寧語の語尾変化の習得したりするには役に立つのではないでしょうか。また、幼児向けの躾に関する「ことわざ」なんかも、マインドの習得には役に立つのではないでしょうか。

 昔、韓国のことわざを、勉強しましたが、言わんとするところがさっぱり分かりませんでした。最近になって、分かったのは、日本のマインドとは全く逆のことを教えていたのです。
 例えば、「泣く子は、お菓子をたくさんもらえる」。これは駄々をこねなさいと勧めているとしか思えません。理解できないのも当然です。
駄々をこねて、日本からお金をせびろうとしている現在の姿は、まさにこのことわざの通り国家がやっていることで、私は、韓国語は上手くならなくても良いと考えました。

児童向けのことわざを当たってみましたが、沢山あって、また、難しいですね。
http://happylilac.net/sy-kotowaza_list.html


 少し話題がそれるかもしれませんが、「マダムリリー」と言うブログが有ります。
 日本語を学んでいる彼女の旦那様は、“語尾で感じ取る”訓練ができたそうな。また、日本語は最後まで聞かないと何を言わんとしているのかわからないとおっしゃてるようですし、間に挟む「ちょっと…」、「けど…」、「何か…」のような短い言葉でも、多くのニュアンスを含んでいることにもお気づきのようです。
 従いまして、日本語は話者よりも、“聞く側が努力しなくてはいけない言語”ではないかとのご理解のようです。その他、日本語を学習するようになって、以前よりも辛抱強く人の話を聞くようになったとそうです。

 と言うような話があります。最初に、述べましたように、教えるときに、何か、「聞き手」の視点というか、立場に立ってアプローチするような学習の仕方も、有るのかもしれません。









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その9

2016-07-21 04:33:29 | 9.日本的なるもの
外国人が見た最近の日本。

 最近では、有名人でもない一般人が、ネット上に、コメントを残せるようになっていますので、いろいろな話が、聞こえてきますが、戦後になって、すなわち、私が、物心つくようになってから、生まれてきた習慣もありますので、勘違いなさるかもしれません。その場合、もう一歩掘り下げて考えてみる必要があると考えます。

 バスへの整列乗車は、私の大学の頃でも、京都駅前では、行われていませんでした。整列はしていたものの、バスが着きますと、入り口に群がっていました。しかし、そのころ、上京した東京では整然と、整列乗車が行われていました。
 自動車の警笛が少なくなったのも、私の大学時代以降ですね。大学のころに自動車の免許を取りまして、それ以降に、そういうキャンペーンが始まったように思います。

 信号機については、私の身の回りでは、小学校の頃に、国鉄の奈良駅前に設置され、新聞の記事になっていました。自動車の往来がほとんどなくても、今でも、信号無視しない日本人の習慣は、どこから来ているのでしょうか。約束やルールを守る日本人は、もめ事を嫌い、秩序を重んじたからなのでしょうか。しかし、そのベースには、一体、何があるのでしょうか。

 エスカレータの右に立つ、左に立つも、エスカレータの設置は、比較的最近の話です。しかし、なぜ、急ぐ人に道を開けようとするのでしょか。

 履物を揃えて脱ぐように、躾けられていますが、その理由は、単に見た目がきれいだけではないでしょう。次に自分が使う時も、他人が使う時も、使い易く、便利です。「いざ!!」という時に備えているのではないでしょうか。
 仕事上で、「段取り八分」と教わったことがあります。うまく段取りをつければ、仕事は、成就したも、同然ということを表していると考えます。今の言葉で言えば、行き当たりばったりでなく、しっかりシミュレーションして、準備万端、怠りなく、してくださいというのでしょうか。



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20160716

2016-07-19 04:05:30 | 7.私の日誌
日本語講座

 今回も学者志望のSさんが出席しました。
 講師からの指名で、メンバーが、課題に対して例文を提示しますが、ネーティブは、ほとんど、間違ったり、不自然な表現したりしません。ところが、そういった場合、ノンネーティブの彼は、やはり、間違えてくれて、考えるヒントを与えてくれます。そして、日本人のメンバーは、「アア、こういう間違いをするのか」と認識できる訳です。

 今回、「~とおりに、」が課題で、彼は、「みんな、ご存知のとおりに、言語を習得するのは難しい。」と例文を作りましたが、言わんとするところは良く分かりますが、やはり不自然です。
 講師の指摘は、「みなさま、ごぞんじのとおり、~」は、ほとんど慣用句になっているので、そういう使い方の方がよいだろうとのことです。ただし、回答としては、設問から少し外れているようで、設問通りならば、語尾は、形容詞ではなく、動詞になるような物を選んだほうが良いでしょうとの指摘です。(ノンネーティブにはこの理解は、非常に難しい。)

 私の見解は、英語には、「時制の一致」とかが有りますが、日本語には、丁寧語・尊敬語が有って、全文語調が同じでないと不自然に感じるということが有ります。慣用句は慣用句ですが、「丁寧さ「の一致とか、「ぞんざいさ」の一致とかが、先にあるように思います。
 「です。」、「ます。」調、「だ」、「である」調等々は、複数の文章が集まったとき、前から後まで、統一されていないとまずいですが、同一文章の中で、丁寧語のレベルが、一定していないと、やはり不自然な日本語になります。(「みんな」と、「ご存知」はでは、丁寧さに差があるように感じます。)
 
 私は、英語、中国語は、丁寧語の存在しない、ぶっきらぼうな言語と考えていますので、もしそうだとしますと、彼等には、丁寧語のレベルを揃えるなんて、先ず、概念が存在しないでしょう。新たに、その概念を取り入れて、そして、それを、使いこなすとなりますと、やはり、まだまだ、時間がかかりそうです。

 設問から回答がずれている件は、まだ、「とおりに」と、「ように」の区別が出来ていないように感じます。「とおりに」は、「そっくりそのまま真似る」ような意味合いですが、「ように」は、単に、「同じように」という意味で、だいたい似ていれば良い程度で、それほど厳密に、「同じ」を要求しているわけではではないと思います。




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その8

2016-07-17 18:38:37 | 9.日本的なるもの
外国人が見た昔の日本

 日本人が、日本、日本人を評しますと、どうしても、「手前味噌」とか、「井戸の中の蛙」になってしまいますので、外国人がどう見たのかを知れば、多少とも、客観的に見ることができるのではないでしょうか。

 以前、そういった書物を、探し回ったことが有りましたので、・・・・・・
 まずは、国家としてまとまりかけた頃、支那の歴史書「魏誌」や、「隋誌」に少し取り上げられています。そして、次に、宣教師が来日したころ、彼らが、本国に報告書を送り、それらが現存しているようです。視点は、宗教人の視点、ないしは、キリスト教の世界制覇の先兵というところでしょうか。さらには、明治維新の頃、いろいろ、希望、欲望を以って、来日された方々がいろいろ書き残しておられます。

 私は、日本人のマインドを知るには、イザベラバード女史が、書き残したものを、お薦めします。
 それは、一般の人と直に接した時の話であり、彼女は、日本だけでなく、同時に、支那、朝鮮、その他の国々も訪れていることから、彼女の主観ではありますが、一定した、物差しで、物を、見比べているということです。
 いずれの国も、昔のマインドを、未だに、引きずって、現在に至っているものと考えます。そして、言語も、そのマインドを表しやすいように、成り立っているものと考えます。

 更に、興味のある方は、私の姉妹編のブログであります、「ばばちゃんのおっちゃんの独り言」等に、本の紹介が有りますので、参考にしてください。



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