かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

「市民」=「消費者」じゃない

2009年03月22日 | 無償の労働、贈与とお金
また、うまくまとめられそうにないテーマをつらつらと書いてみます。

先日、あるひとと会話していてうまく説明できなかったことです。

現代においては、生産と消費が分離させられていることをあたりまえのように感じているように思えますが、その問題が今の不況打開策を語るときに、さらに矛盾を深めることにつながってしまっているのを感じます。

エコノミストは、この経済危機を脱するには、まず冷え込んだ消費マインドを刺激してやることが大事だという。
定額給付金はそうした意味合いがあるとのこと。

悲しいばかりの発想です。

今の政治の流れは、その悲しい発想を変えることができません。

話のなにがかみ合わないのでしょうか。
発想のどこが違うのでしょうか。

確かにこれまでの経済の発展は、消費の拡大によって支えられてきました。
内需の限界は、外需の拡大によってささえられてきました。

ところが今の世界的な経済危機の現実は、これらの市場の拡大という錬金術が、すでに10年、20年前から破綻していたことを気づかせてくれるものです。

金融工学を駆使してあらゆるところから資本を集めて、実質は先進国内部ではなく途上国の市場拡大でささえられてきた経済発展。

この現実をもっとよく見ておかなければならない。

アメリカの購買力が衰えている現実、途上国の経済発展が鈍化している現実、それらは不況という景気循環の規模の大きなものではない。

数字だけをみても、内需の拡大がいかに大事であるかは誰もが気がつく。

でもそれは消費マインドの刺激で解決できるような問題ではない。

ここからの説明が、どうもまだ整理できない。

突破口は、知恵を出せばいろいろなところから開けるものだろうけれども、これからの時代の「内需」ってなんなのだろうか、といった疑問がわくのです。


 これまでの社会では、「市民」「家庭」は消費単位、「企業」は生産単位としてとらえられ、企業が技術革新の下で一定時間に効率よく大量の「物」を生産し、「家庭」に供給することが「豊かな社会」をつくることになると考えられてきました。

 この「市民」「家庭」を消費の単位、「企業」を生産の単位と考える限り、真の「内需」の拡大は生まれないと思います。

 経済学がとらえる消費主体を「市民」「家庭」ととらえ、企業のみが生産主体でるとする時代は終わり、「市民」、「家庭」こそがまず生産の主体であることに気づいても良い時にきているのではないでしょうか。

 
父ちゃんは会社で働いたのだから、家ではゴロゴロしていていい社会は終わりはじめているのです。

企業はイメージアップのために社会貢献活動を取り入れる時代は終わるのです。

社会科学的な「個人」ではなく、また肩書きや身分や資格で約束される社会ではなく、裸のひとりの人間が、目の前の人に対して何が出来るかが絶えず問われる社会・・・

これは決して能力主義への道ではなく、すべてのひとが生きていくための本源的生命力を取り戻す過程なのだと思うのですが、このことはもう少し詳しく説明を加えなければならないかな。

気が向いたらまた続きを書きます。
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