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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

夢の記憶(最近の会話から)

2009年09月06日 | 夢日記 (手は届かないけど観念だって実在なんだから)

わたしは時々、おまえはよくそんなに夢を覚えていられるものだと人から言われることがあります。
たしかに見た夢を人に話したり、ブログに書いたりすることはあるのですが、
決して見た夢を他人よりよく覚えているというわけではありません。

ほとんどの夢は、寝起きにわずかな記憶はありますが、
目覚めとともにすぐに忘れてしまうものです。
これは、多くの人とほぼ同じレベルだと思います。

いや、ほとんどのひとの夢の記憶というのは、きっと共通してそのように儚いものなのでしょう。

誰もが強烈な印象を受けたような夢の体験であっても、
悲しいほどにその記憶は瞬く間に消えていってしまいます。

もし多くの夢をそのまま記録することが出来たならば、シュールレアリズムのアートなど
吹っ飛んでしまうような作品がたくさん出てくるかと思います。

実にもったいないことです(笑)

ほぼ毎日のように世界中の人びとがみているにもかかわらず、
圧倒的な部分の夢は残ることなく消えていってしまっています。
それが、どのようにしてごく一部のものだけが
運よく、「覚えている」ことになるのでしょうか。

自分のことをあらためて振り返ると、それはある程度はっきりしているように思えます。

それは、頭のなかの映像の記憶を「文字」「言葉」の情報に置き換えたときです。

文字情報と映像の情報では、明らかに違うものですが、
その場面、情景、ストーリーを文字や言葉の情報に置き換えることによってのみ、
はっきりとした記憶として残すことができるのではないでしょうか。

わたしが見た夢を、誰かに話すとき、その多くの夢は断片的であったり、
話や場面の辻褄があわなかったりするものですが、
それは映像の上ではなんの矛盾もなく存在しているものです。

それを言葉に置き換えて人に伝えようとしたとき、
必至になって場面のつながりを思い起こしたり、
矛盾したストーリー展開を言葉で補ったり、
時には足りない部分を伝えやすくするために捏造、付けたしをしたりもしながら、
漠然とした映像や、時には鮮明でありながら言葉で表しがたいものをなんとか言語におきかえる作業をします。

言語におきかえるというよりも、
より正しくは、誰かに「わかってもらえる」、
あるいは「伝わる」表現に、映像の記憶を置き換える作業であるともいえます。

こうしたことから結果は、

記録に残したもの、
誰かに伝えようとしたものだけが、
記憶に残るのだともいえます。


ちょっと別の話になりますが、私のいる店は伊香保、草津、四万温泉へ通じる道の途上にあるためか、
遠方から来た人に道を聞かれることがよくあります。

その時、うちの従業員が、どこどこへは、この道をまっすぐ行けば大丈夫です。
と、軽く教えているのを目にします。

たしかに大体はまっすぐ道なりで間違いないのですが、
まず最初の信号を右折しなければならないこと、
先にY字路などがあればどちらが本線なのか、
余所から来た人にはまったくわからないことが
すべて省略されてしまっているのです。

地元の人間からすれば、いつも通っている道だから、まっすぐでわかるつもりなのですが、
はじめて通る人にとっては、正しいことを教えてもらっても、
これでいいのだろうかと迷う材料には事欠かないものです。

ならば、紙に書いてきちんと説明してあげればよいと思うのですが、
このように、まっすぐ行けば大丈夫と言ってしまう人ほど、
では具体的にどのように線を書いて説明したらよいのか、
まったくペンが動かなくなってしまうものです。

紙にはうまく書けないから言葉で済ませる。

ここです。問題は。

紙にきちんと書けないようなことは、
言葉でもうまく相手に伝わるような表現にはなっていない場合がほとんどなのです。


体験的に頭で十分わかっているつもりのことでも、人に理解してもらうには、
しばしば大変な労力を伴わなければ満足のいくものにはならないものです。

これは、夢の記憶をまったく同じ世界です。

わたしは、長い文章のブログをいつもよく書くねと言われることもしばしばありますが、
これも、ブログやホームページに書いたこと以上の体験や思考はしているはずなのですが、
書き遺したこと以上の記憶は、残念ながらわたしにもほとんど残りません。

今年5月に奈良、吉野、熊野へ行った旅行も、
言葉には表せない貴重な体験をたくさんしましたが、
おそらく今回作成した文集に残した写真や文章以上の記憶は、
残念ながら、ほとんど残らないものなのかもしれません。

これは、写真に撮って残す情報と絵に書いて残す情報の違いを比べると顕著です。

前回引用したコリエの言葉のように、確かに写真には膨大な情報が詰まっていますが、
その情報のディテールは、見る側に無条件に与えられているわけではありません。

同じ対象を絵に描くように、その部分部分が、どのようなカタチをしているのか、
どんな色彩をしているのか、確認する作業は経ることなく、
一瞬のうちに写しとっているからです。 


だれもが唯一無二の貴重な体験をしたり、
常識では考えられないような面白い夢をみたりしながら、
日々すばらしい時間をすごしているはずなのですが、
その貴重な体験は、
人に伝える言葉におきかえたもの、あるいは絵画など何らかのカタチで書き遺したものだけが、
自分自身の記憶が財産として積み重ねられたものになるのではないかと感じます。

でも、言語化されないもの、絵画化されないものに実態がないはずはないだろうということは、
また厄介な文になるので、またの機会にさせていただきます。


           (以上、「手作り本・小冊子」活動の営業文でした。)

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