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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

塗ったものは剥がれる。美の核心を求めれば・・・

2014年12月26日 | 暮らしのしつらえ

最近わたしは、大工仕事で塗装作業をすることがとても多い。

木の材質によって塗料ののり具合はさまざまで、重ね塗りをしなければならないもの、ニスの上塗りが必要なもの、あるいはそうでないものなど、やりながらいろいろと試行錯誤を重ねています。

こうした経験を重ねるほど木工の場合は、塗装はしても、木の質感をどう残すかがとても大事であることに気づきます。どんなにきれいに塗れても、木の質感がなくなってしまうと、どうしても安っぽいものに見えてしまうのです。この辺が、同じ塗る作業でも漆塗りなどとは根本的に異なるところです。

そもそも「塗る」という作業は、美しくするためではあってもどこかに必ず「ごまかす」という側面を隠し持っているものです。

化粧をしてより美しくするためであったり、素材を保護するためであったりしても、素材そのものの力では何かが足りないと思うことが、「塗装」という余計な作業を付加させる。

この矛盾を最近はつくづく感じるのです。

 

こうしたことを感じるひとつのきっかけは、尊敬する岡本太郎の本を読んでいたときです。

縄文文化に代表されるような日本の伝統を尊重しながらも、それを現代の視点で活かすには、教養や懐古趣味にとどまることなく、鋭く厳しい創作の精神を持たなければならない。その伝統と創造の相克に、岡本太郎は最も果敢に挑んだ芸術家でした。

しかし、彼の造形美に共感できても、どこかその色彩はいかに鮮烈であっても、その造形美が「塗った」ものにしか見えないのが残念でならないのです。

岡本太郎ほど、日本の伝統と創造の問題に鋭く切り込んだ芸術家はいないと断言できるほど、わたしは彼を高く評価しています。にもかかわらず、その造形美は、どうしても「塗った色彩」に終わってしまっていることが残念でならないのです。

もしも、太郎の作品がさまざまな色合いの天然素材をつかって着色せずに、あの造形をつくり出していたならば、それだけで評価はもっと普遍的なものになっていたのではないかと思うのです。

おそらく作品の寿命も、一桁増えた年数になるでしょう。

 

さらにもうひとつ別の視点から、私は同じような「塗装」ということの問題を感じます。

それは、日本古来の仏像や仏教建築をみるとき、現代人はその素朴な肌合いのが醸し出す重厚感に心酔しますが、制作当時の真の姿をみると、再現したCGなどをみるまでもなく、とても原色ケバケバしい華やかな世界があったことに気づきます。

これもよく言われることですが、このケバケバしい原色の世界こそが古代美術のほんとうの姿で、鎌倉、戦国時代以降に芽生えた侘び寂びの日本文化観からゆがんだ目で現代人は古代美術をみているのではないかと。

わたしも長い間、確かにほとんど残存していない原色あふれる古代美術こそ、その真の姿であったとは思いながらも、その現実は、なんとなく素直には受け入れがたい気持ちを残していました。

でも、私が尊敬する岡本太郎が伝統と創造の厳しい闘いに徹していながら、造形美を「塗る」ことで補完してしまった惜しさを感じたのと同じ視点で見れば、古代美術の原色美は、その塗装が剥がれはじめたときにこそ、その本質的な部分、素材の質感と造形力の精神が浮き出てきているといえないでしょうか。

侘び寂び風の日本文化に馴染むということではなく、その制作者の精神は、素材保護のための塗装、着彩演出のための塗装はあくまでも二次的なものであったであろうという原則です。

確かに古代美術も鍍金や着色がされていたからこそ、木という弱い素材が虫に食われず腐りもせずに長い年月を生き延びてこれた面もあります。

さらに芸術作品の場合は、補完する要素がたとえ二次的であろうが、三次的であろうが、ディテールへのこだわりが全体を活かしも殺しもするので、だからといって塗装は大事でないということでは決してありません。

事実、妙義神社の本殿や妻沼の聖天山本殿の華麗な着彩彫刻をみると、原色あふれる着彩であっても、地に黒漆がしっかり塗られていると、とても引き締まった鮮やかさに見えるものです。そこに悪趣味なケバケバしさは感じられません。これは大陸の建築にはない世界だと思います。

塗ることが命の絵画の場合と、形造ることが命の彫刻や建築の問題をごっちゃにしている面もありますが、こうした意味で考えると、「塗る」絵画の世界のほうが、芸術創造の世界ではむしろ抽象言語に近い特殊な世界なのではないかとさえ思えてきます。

 

ものごとなにごとも原則がすべてとは限らず、どんな部分からでも、どんな角度からでも本質に迫ることはありうると思います。

でも、なんとなく二次的要素は、出来る限り減らす、省く方向に進んでこそ、美の核心には迫れるのではないかと最近つくづく感じるのです。

現代の暮らしや生産活動のなかで、この二次的な「塗る」作業を極力減らす努力を重ねていくと、身の回りのあらゆるところからほんとうの美が溢れ出してくるのではないでしょうか。

世界に残る美しいものの共通点を探し求めていくと、なんとなく私にはこれがとても大事なことなのではないかと思えます。

そんなことを感じる今日このごろです。

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