中国政府によるゼロコロナ政策への抗議活動が中国各地に広がっている。「習政権は退場せよ」「共産党は退陣せよ」とのスローガンが叫ばれているという。
「習政権は退場せよ」というスローガンは驚きはしないが「共産党は退陣せよ」には驚く。1949年に毛沢東が天安門の楼閣の上から新中国誕生を宣言してから、初めてではないだろうか。
興梠氏をはじめ中国の専門家は共産党没落に至らないと解説している。確かに短期的にはそうだろう。しかし長期的には、中国共産党の終わりの始まりなのかもしれない。
1990年代後半に始まった通信革命は中国共産党による徹底した監視社会を可能にした。蟻の這い出る隙もない監視社会を実現した。誰しも中国共産党の最大の核心的利益は保証されたと思うだろう。それは何か。永続的な中国支配だ。
習近平・総書記の最大の核心的利益は「共産党による永続的な中国支配」だ。通信革命はそれを可能にしたとも言えるが、通信革命は中国共産党にとって、諸刃の刃だ。
通信革命はスマホをもたらし、インターネットをもたらした。中国共産党がいかに言論統制を厳しようが、上手の手から水がこぼれるように中国国外から習近平や共産党に不都合な情報を中国国民は手に入れることができる。20世紀のように新聞やテレビを統制していれば、すべてが上手くいく時代は過ぎ去った。
中国共産党と習近平・総書記は歴史の変化に気づいているのだろうか。メディアによると、習近平は中国モデルによる社会主義発展を主張し、西洋モデルを批判する。それは中国に適さないと強調する。西洋モデルは民主主義と自由、法治主義だ。
果たして習近平の主張は正しいのか?私はそう考えない。習は大きな歴史の流れに逆らっている。そしていつの日か、習体制と共産党はそれに飲み込まれるだろう。民主主義と自由、法治主義、国際法への尊重、複数政党制は歴史の潮流だ。歴史の流れは壮大だ。それに逆らう者は滅亡する。
東京・新宿駅の朝のラッシュ時間帯。通勤客は足早に私鉄や地下鉄からJRに向かって歩いている。まるで大きな川の流れのように通勤客の群れは帯状になって動いていく。
この流れの中にいれば、流れからはずれるのは難しい。流れから外れようと思ってうまく脱することができたとしても、流れに乗りながら離脱していくしかない。思い立って直ぐに流れの外に出ることは難しい。もしこのような状況で、通勤客や観客の流れに混乱が起これば、将棋倒しのような大事故につながることは疑いの余地はない。
これを歴史の流れにたとえる。歴史の大勢はわれわれの目にぼんやりとは見えても、それが何を意味するのかまでは理解できない。民主主義や自由は、歴史の「インパーソナル・フォーシズ」であり、歴史の流れの原動力になっている。歴史の大きな流れに逆らう中国共産党は、民主主義と自由・人権など、現在の「インパーソナル・フォーシズ」と激しく戦っている。
人間と人間が無意識のうちにつくり出す環境(インパーソナル・フォーシズ)が歴史を動かす。このインパーソナル・フォーシズと人間が意識してつくり出すパーソナル・フォーシズの二つの要素が政府に影響する。そしてこの二つの要素から政府が政策を決定し、世論や環境に影響を及ぼす。ただ、政府の政策実行によってこの世論や環境は反作用の様にして政府の行動を制約する。この環境が長期的な歴史の流れをつくり出す。
英国・ケンブリッジ大学のエバンズ教授は「歴史はパーソナル・フォーシズとインパーソナル・フォーシズの相互作用で動くのです」と話す。われわれの目にぼんやりと見えているが、意識しないと気づかない「インパーソナルフォーシズ」と、我々自身の行動によりもたらされる「パーソナル・フォーシズ」の相互連関作用だ。
「もし諸君がそのような表現を使うなら、インパーソナル・フォーシズは慣性力(momentum)を持っていることは明白です。インパーソナル・フォーシズが自らの力をなにかほかのものに強いて、人間の行動に自由をもたらしたり、制約したりします。カール・マルクスは次のような有名な言葉を残しています。『人々は自ら歴史をつくる。ただ、自らが選択した条件で歴史をつくることができない』。これはまさに正しい。諸君がマルクス主義者でなくても、それを受け入れねばなりません」
習近平や中国共産党はどれだけ情報統制をしても「歴史の趨勢」に勝利することはできない。習近平・総書記に助言する。あなたがマルクス主義者なら、一刻も早く、民主主義を受け入れることだ。さもなくがルーマニア共産党のニコラエ・チャウシェスクが30年前、独裁の塵と歴史の大流のなかに消えていったように、哀れな末路をたどるのは必至だ。
思想、観念、イデオロギーのよろいで武装し、現実を無視ないし軽視して自らの野望に邁進する独裁者は例外なく歴史の流れに溺れて消えていく。それはインパーソナル・フォーシズの仕業なのだ。習近平・総書記は一刻も早く、それに気づかなければならない。
「習政権は退場せよ」というスローガンは驚きはしないが「共産党は退陣せよ」には驚く。1949年に毛沢東が天安門の楼閣の上から新中国誕生を宣言してから、初めてではないだろうか。
興梠氏をはじめ中国の専門家は共産党没落に至らないと解説している。確かに短期的にはそうだろう。しかし長期的には、中国共産党の終わりの始まりなのかもしれない。
1990年代後半に始まった通信革命は中国共産党による徹底した監視社会を可能にした。蟻の這い出る隙もない監視社会を実現した。誰しも中国共産党の最大の核心的利益は保証されたと思うだろう。それは何か。永続的な中国支配だ。
習近平・総書記の最大の核心的利益は「共産党による永続的な中国支配」だ。通信革命はそれを可能にしたとも言えるが、通信革命は中国共産党にとって、諸刃の刃だ。
通信革命はスマホをもたらし、インターネットをもたらした。中国共産党がいかに言論統制を厳しようが、上手の手から水がこぼれるように中国国外から習近平や共産党に不都合な情報を中国国民は手に入れることができる。20世紀のように新聞やテレビを統制していれば、すべてが上手くいく時代は過ぎ去った。
中国共産党と習近平・総書記は歴史の変化に気づいているのだろうか。メディアによると、習近平は中国モデルによる社会主義発展を主張し、西洋モデルを批判する。それは中国に適さないと強調する。西洋モデルは民主主義と自由、法治主義だ。
果たして習近平の主張は正しいのか?私はそう考えない。習は大きな歴史の流れに逆らっている。そしていつの日か、習体制と共産党はそれに飲み込まれるだろう。民主主義と自由、法治主義、国際法への尊重、複数政党制は歴史の潮流だ。歴史の流れは壮大だ。それに逆らう者は滅亡する。
東京・新宿駅の朝のラッシュ時間帯。通勤客は足早に私鉄や地下鉄からJRに向かって歩いている。まるで大きな川の流れのように通勤客の群れは帯状になって動いていく。
この流れの中にいれば、流れからはずれるのは難しい。流れから外れようと思ってうまく脱することができたとしても、流れに乗りながら離脱していくしかない。思い立って直ぐに流れの外に出ることは難しい。もしこのような状況で、通勤客や観客の流れに混乱が起これば、将棋倒しのような大事故につながることは疑いの余地はない。
これを歴史の流れにたとえる。歴史の大勢はわれわれの目にぼんやりとは見えても、それが何を意味するのかまでは理解できない。民主主義や自由は、歴史の「インパーソナル・フォーシズ」であり、歴史の流れの原動力になっている。歴史の大きな流れに逆らう中国共産党は、民主主義と自由・人権など、現在の「インパーソナル・フォーシズ」と激しく戦っている。
人間と人間が無意識のうちにつくり出す環境(インパーソナル・フォーシズ)が歴史を動かす。このインパーソナル・フォーシズと人間が意識してつくり出すパーソナル・フォーシズの二つの要素が政府に影響する。そしてこの二つの要素から政府が政策を決定し、世論や環境に影響を及ぼす。ただ、政府の政策実行によってこの世論や環境は反作用の様にして政府の行動を制約する。この環境が長期的な歴史の流れをつくり出す。
英国・ケンブリッジ大学のエバンズ教授は「歴史はパーソナル・フォーシズとインパーソナル・フォーシズの相互作用で動くのです」と話す。われわれの目にぼんやりと見えているが、意識しないと気づかない「インパーソナルフォーシズ」と、我々自身の行動によりもたらされる「パーソナル・フォーシズ」の相互連関作用だ。
「もし諸君がそのような表現を使うなら、インパーソナル・フォーシズは慣性力(momentum)を持っていることは明白です。インパーソナル・フォーシズが自らの力をなにかほかのものに強いて、人間の行動に自由をもたらしたり、制約したりします。カール・マルクスは次のような有名な言葉を残しています。『人々は自ら歴史をつくる。ただ、自らが選択した条件で歴史をつくることができない』。これはまさに正しい。諸君がマルクス主義者でなくても、それを受け入れねばなりません」
習近平や中国共産党はどれだけ情報統制をしても「歴史の趨勢」に勝利することはできない。習近平・総書記に助言する。あなたがマルクス主義者なら、一刻も早く、民主主義を受け入れることだ。さもなくがルーマニア共産党のニコラエ・チャウシェスクが30年前、独裁の塵と歴史の大流のなかに消えていったように、哀れな末路をたどるのは必至だ。
思想、観念、イデオロギーのよろいで武装し、現実を無視ないし軽視して自らの野望に邁進する独裁者は例外なく歴史の流れに溺れて消えていく。それはインパーソナル・フォーシズの仕業なのだ。習近平・総書記は一刻も早く、それに気づかなければならない。